『心の歌よ! ──日本人の「故郷」を求めて』(2021/2/13・伊藤千尋著)から、もう一つ。
「赤とんぼ」には伝説化した話がある。1956(昭和31)年、東京・立川の米軍基地拡張に反対した砂川闘争で、警官隊に立ち向かった学生や農民からわき出た歌が「赤とんぼ」だったという。事実を知ろうと、当時の全学連砂川闘争委員長だった政治評論家の森田実さんに聞いた。「今だから話しましょう」と森川さんは言った。
「忘れもしない10月13日です……」。当時、動員された学生は3000人。学生が前面に出て機動隊のこん棒を受ける役割を負った。雨の中、警官隊と肉弾戦となり負傷者が続出した。機動隊は夕刻までに基地拡張に必要な測量をしようとする。夕刻まで阻止できれば勝つ。最後に向き合ったのは農民、学生ら約50人と警官150人だ。
「警官があと半歩出れば私たちは負ける状況だった。残った者は集まれと叫ぶと、50~60人が集まってスクラムを組んだが、もうフラフラになっていた。そこで元気を出すためにみんなで歌を歌おうと考えた。思いついたのは『民族独立行動隊』だが、これを歌えば機動隊も元気になる。獰猛(どうもう)な相手を人間的な気持ちに戻し、大人しくさせる歌はないかと考えたら『赤とんぼ』を思いついた」
日没までの30分、雨に濡れながらみんなで「赤とんぼ」を繰り返し、繰り返し歌った。すると警官隊は突撃して来なかった。「私たちは人道主義で闘った。警官にも純粋な気持ちがあった。その直後、自殺した警官もいた」と森円さんは証言する。自殺した警官は、同じ日本人の農民の土地を奪うことに自分が手を染めたことを恥じたのだ。
「歌には癒やしの力があります」と語るのは、露風の研究家、近畿医療福祉大学の和田典子准教授(現・姫路大学教授)だ。和田さんは「『赤とんぼ』は母という字を使わない母恋いの歌です。この歌を聞けば、子どものころに負われた母の背のぬくもりを思い出す。詩に抽かれた夕焼けの情景は日本人が持つ民族的な好みです」と話す。
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