お盆は、相変わらず「お迎えに行く」という言葉が飛び交います。一年前のお盆に、このブログに次のように書いています。
隣寺の住職いわく「三奉請で“奉請弥陀如来(ぶじょうみだにょらい)入道場(にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)”、弥陀如来、道場に入りたまえと、阿弥陀さまは常に私のもとに至り届いて下さっているのに、あえて法要の折などには、お入りくださいと讃嘆する。それは私の側の心持を新たにして、阿弥陀さまとの出遇い新たにするということであろう。真宗において“弥陀如来、道場に入りたまえ”があるのであれば、お盆において同じ理由で先祖を迎えるということが、あってよいのではないか」
一理あるように思われます。真宗では、お盆の迎え火をたくことを嫌います。でも三奉請の論理から言えば、先祖を迎えるという行動はあり得ることなのだと思われます。でも先祖が餓鬼道から救われるという一般常識に迎合するマイナスの方が多いので、迎え火は敬遠されているのでしょう。でも少し工夫する余地もありそうです。(以上)
少しの工夫に、仮想のトライですがチャレンジしてみます。お盆は先祖が餓鬼道から救われてくる時節です。
それを逆転して実は餓鬼とは、「常に飢えたる者」のことで、実は常に足ることを知らず、欲心と名利(みょうり)に駆け回っているこの私そのモノです。この私が肉親の縁によってご法義に遇い、救われていくことを実感する日がお盆であり、その感謝の営みがお盆のお勤めです。
如来と先祖をお迎えしてお勤めします。餓鬼道の境界にある私のもとに如来をと先祖をお迎えに行くのです。ご先祖や仏の側から言えば「遊煩悩林現神通」(煩悩の林に遊びて神通を現ず)です。これが真宗のお盆のお迎えです。これってあんがい、有り難い。
隣寺の住職いわく「三奉請で“奉請弥陀如来(ぶじょうみだにょらい)入道場(にゅうどうじょう)散華楽(さんげらく)”、弥陀如来、道場に入りたまえと、阿弥陀さまは常に私のもとに至り届いて下さっているのに、あえて法要の折などには、お入りくださいと讃嘆する。それは私の側の心持を新たにして、阿弥陀さまとの出遇い新たにするということであろう。真宗において“弥陀如来、道場に入りたまえ”があるのであれば、お盆において同じ理由で先祖を迎えるということが、あってよいのではないか」
一理あるように思われます。真宗では、お盆の迎え火をたくことを嫌います。でも三奉請の論理から言えば、先祖を迎えるという行動はあり得ることなのだと思われます。でも先祖が餓鬼道から救われるという一般常識に迎合するマイナスの方が多いので、迎え火は敬遠されているのでしょう。でも少し工夫する余地もありそうです。(以上)
少しの工夫に、仮想のトライですがチャレンジしてみます。お盆は先祖が餓鬼道から救われてくる時節です。
それを逆転して実は餓鬼とは、「常に飢えたる者」のことで、実は常に足ることを知らず、欲心と名利(みょうり)に駆け回っているこの私そのモノです。この私が肉親の縁によってご法義に遇い、救われていくことを実感する日がお盆であり、その感謝の営みがお盆のお勤めです。
如来と先祖をお迎えしてお勤めします。餓鬼道の境界にある私のもとに如来をと先祖をお迎えに行くのです。ご先祖や仏の側から言えば「遊煩悩林現神通」(煩悩の林に遊びて神通を現ず)です。これが真宗のお盆のお迎えです。これってあんがい、有り難い。
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