ニッポンでは深夜の就任式、浮かない顔のヒラリー、あの毒が消えている、赤いドレスのミシェル、水色の服のトランプ夫人、女たちの戦いが終わった、だが、赤いネクタイのトランプにはこれからだ。
「マタイの5章」が読まれる、
義のために迫害される者は幸いである
天国は あなたたちのものである・・・
終に、トランプが宣誓した、しかし、この野人は、新しいパラダイムとは無縁だろう。
つまり、ニッポンにチャンスがある、しかし、透徹した政治哲学の Statesman(ホンモノの政治家)が見当たらない、残念なことである。
さて、オイル・ショック( oil shock )は2度あった、
第1次 1973年
第2次 1979
第1次オイルショックは、第4次中東戦争の影響でアラブ諸国が原油生産を大幅に低下させて、先進諸国が不景気になる、
1、失業
2、インフレ
3、貿易収支の悪化
田中政府は、なんとか、このショックを乗り切ろうとして、アメリカ越しにサウジアラビアとの直接交渉、これは戦後の日米の暗黙の取り決めを無視ということか、それは「禁断の一手」。
第2次オイルショックは、1979年のイラン革命により石油供給が減り、石油価格が高騰し、先進諸国は、
1、エネルギーの節約
2.代替エネルギーの開発
ところで田中角栄は、
1972 首相就任
1974 退陣する
意外に短い、
1976 ロッキドー事件で逮捕
1983 一審で懲役4年・追徴金5億円の実刑
これが、首相経験者への判決であった、
1993 死去
実刑判決の内容は、
1、受託収賄
2、外国為替管理法違反
ロッキード社がヒコーキの売りこみに際し、多額の工作資金がワイロとして渡された疑獄事件として解釈されているようだが、実際はどうか。
オイルショックの際、アメリカを無視してサウジとの交渉、その取引を見事に成功させた田中に対する報復(ほうふく)という観測がある、そうならば霞が関や政府の内部にも、多くの協力者がいたのかもしれない。