The orthodox civilization is the festival politics of Japan

「安藤真の『世界文明の正統は』」の続き、祭政は人間中心を超え物質文明を越える、これを受け継いでいるのが日本の伝統と文化

アイルランド系アメリカ人の現実

2009-04-30 06:21:04 | Weblog

 現在のアメリカ人の人口は3億630万人(2004)で、
  ドイツ系アメリカ人  4280万人
  アイルランド系     3052
  イギリス系       2451

 意外なことにイギリス系が一番ではなく、ドイツ系が圧倒しており、次いでアイルランド系になっている、あのアイルランドの移民たちは、新大陸で繁栄していることになるのかもしれない。

 39年前の統計では、
  イギリス系      15・3%
  ドイツ系        12・7
  アイルランド系     8・1
        ― Census of Population '70  ― 


 その象徴が、J・F・ケネデイ大統領であったことになる、あの当時の盛り上がりには大変なものがあった。

 ところで、数百年におよぶイギリスの支配はアイルランド人への徹底的な弾圧であり、知的産業に従事すること、権力に参加すること、さまざまの技術を身につけることを許さなかった。

 そのため、アメリカに移民しても単純な肉体労働しかできなかった、彼らの多くはニューヨーク港の荷物運搬の職につく、ところが、南北戦争が終わると仕事にあぶれた黒人たちが北上してくる、そこで「仕事」の取り合いとなり、あの血で血を洗う闘いが繰り返されることになる。

 その後、アイルランドの移民たちは自分の子供に教育を施し、より上の職業に従事させているのだが、ニューヨークの警官や消防夫にはアイルランド系が多い。

 だから、黒人のドロボーを追いかけるポリスはアイルランド系で、百数十年前の繰り返しということになる。

MatanzaとMatanzas

2009-04-24 15:42:21 | Weblog

 1492年、コロンブスがカリブ海の島々を発見してから、この地域の人々に大変な悲劇が襲う。

 「スペイン人が最初に植民を開始したエスパニョーラ島には約300万人の人々が生活していました、それが、わずか数十年で、たったの数百名になってしまいました」 ― ドミニコ会修道士 ラス・カサス ―

 スペイン人たちは、財宝を求め村々に押し入り破壊と殺戮を繰り返す、これが何度も何度も行われた。

 だから、マタンサという地名は、この事実と無縁ではないだろう。

 なお、Matanzaの複数がMatanzas。

 キューバのハバナ東方にマタンサス州・マタンサス港があり、南米のオリノコ川支流にマタンサス市があった、きっと、当時は、勝利と征服の誇らしい名前であったのだろう。

すでに消滅していた

2009-04-22 05:23:14 | Weblog

 カリブ海の島々は、地球上でもっとも美しい地域で、そこで、何十代何百代に渡って過ごしてきた人々は、温和で優しい性格の人々であった。

 そこに、宝石や金銀を目的にしたスペイン人が、なだれ込んできた、その結果は「悲惨」の一言。

 『パイレーツオブカリビアン』という映画があったが、あの映画の中にnative・原住民が出てこなかった、その時点で、すでに全滅していたのではなかろうか。

 そして、怪物のような顔をした船員や亡霊が登場していたが、その背景は十分にあったことになる。

 先日、外務省の役人と話しをする機会があり、その点について触れると、「それは、伝染病でしょう」

 やはり、NHKの番組と同じレベルの理解であった、あまり追及しないようだ。

Matanzasという地名の背後に

2009-04-21 14:39:53 | Weblog

 テレビ番組で、キューバに出かけた3人組が観戦した野球チームの名前が“Matanzas”。

 ここで何かを感じて欲しい、一言が欲しい、わざわざカリブ海に出かけたのだからコメントがほしかった。

 この地名の背後に何があったか、どんな歴史があったか。

 「現在のキューバには、土着の純潔なインディオがいない、マタンサスがあったからである」

 それにしても大変なことである、そして、これと同じことが、アフリカ・南アメリカ・インドそしてオーストラリアで行われていた、「クジラ」どころの話しではない。

 ところが3人のタレントは「キャッキャッキャッー」、はしゃぐだけ、何も見ようとしない。

 テレビのデレクター、ちょっと教えてやるべきだったのではあるまいか、この美しい景色の背後で何があったかを。

 少しでも伝えていくことが必要かもしれない、それが、バランスの取れた国際センスのある日本人を育てていくことになるのではあるまいか。

Matanzaの発見

2009-04-20 05:05:21 | Weblog

 数年前、日本のテレビでキューバを紹介する番組があり、タレントが3人、キューバの各地を訪問し、現地の人々と親交を深めようとした。

 落語家の林家こぶ平(当時)、オリンピックで銀メダルを取った体操選手、それと女性タレント。

 このトリオが面白おかしい珍道中を展開したのだが、その中で、野球のナショナルチームが地方のチームと練習試合をするシーンがあった。

 そのチームの名前がマタンサス・Matanzas、思わず画面を見入ってしまった。

 なぜなら“Matanzas”とは、虐殺・殺戮・大量殺害という意味であったから。

 おそらくマタンサス市のチームであったのだろう、キューバには、この名前が冠せられた地名や港が、いくつかあった。

ラス・カサスの証言

2009-04-19 06:55:25 | Weblog

 コロンブスがアメリカを発見してから、カリブ海と中南米において、何が起こったかをドミニコ会の修道士バルトローメ・デ・ラス・カサスが記録していた。

 「この40年間に、島々と大陸において、一切の法を無視したキリスト教徒の事業のおかげで、子供と大人を合わせて、1200万人以上の人々が不当で残虐な方法で殺されたのだ」

 問題の一行、NHKの歴史講座がスルーした箇所である。

 大変な記録ではあるまいか、「1200万人」、ちょっと信じられない数である。

 ところが、彼は、
 「いや、その数は、1500万人を下らなかったと言っても間違いではないだろう」  ― 『インディアンスの破壊についての簡潔な報告』 ―

 そして、その詳細な事実を列挙している、ヨーロッパの知性が見事に、この人類的な事件を分析していた。

 気候が温暖で自然の産物に恵まれたカリブ海の島々には驚くほど多くの人々が生活していた。

 ところが、スペイン人が入植を開始してから、数十年間でnative・原住民が激減したというのだ。

中南米の原住民の激減 下

2009-04-18 06:17:01 | Weblog

 カリブ海の島々や中米・南米では、凄惨な原住民の抹殺が行われていた、だから、伝染病だけではなかったのだ。

 これは、ヨーロッパ人、特にスペイン人に依るものであり、それは、熾烈で過酷な歴史の事実であった。

 NHKの高校講座の教師、これについて全く触れなかった、そういう方針であるのか、それについて知らなかったのか。

 もし、知っていたとしたら、そして、それを真正面から考えていたら、言葉のニュアンスが違っていたことだろう、表情が変わっていたことだろう。

 そして、毒にも薬にもならない、通りいっぺんの講座にはならないはずだ。

中南米の原住民の激減 上

2009-04-17 11:41:03 | Weblog

 3chの高校講座で世界歴史をやっており、それとなく見ていると「新大陸の発見」。
 コロンブスが新大陸を発見してからの状況を解説していた。

 中年の教師、幸福そうな顔をしている、それはいいのだが、
 「中南米にスペイン人が進出してから、原住民の人口が激減しました」
 「これは、旧大陸からもたらされたチフスやペスト菌によるものです」
 「彼らには、これらの病気に対する免疫力がなかった、その結果、バタバタと倒れていきました」

 中南米の原住民の人口が激減した説明は、これだけであった。

 私は、思わず、画面を見入ってしまった、なんという無知で無責任な解説ではないか、これで、すましてしまうつもりらしい。

 「これだけではない」ことを知っていないのであろうか、中南米で起こった凄惨な事実に目をそむけている、いかにもNHKの好みそうな人畜無害の歴史講座だ。

春の梢で逢おう

2009-04-11 04:50:44 | Weblog

 今年も、なんと、美しく、咲いたことか。
 あの悲しい歌が、流れていた。

  ♪ 貴様と俺とは 同期の桜
     同じ航空隊の庭に咲く

 その最後の歌詞は、
    貴様と俺とは 同期の桜
     離れ離れに散ろうとも
     花の都の靖国神社
     春の梢に咲いて逢おう

 「桜の花になって、また、逢いましょう」
 それが、二人の約束だった、なんと悲しい歌詞であろう。
 
 今年も、きれいに咲いてくれた。

あの若者たちを尊敬しています

2009-04-10 04:27:40 | Weblog

 パレスチナで取材していた日本のカメラマンに現地の若者が、
 「わたしたちは、あの方々を尊敬しています」
 「あの方々」とは、特攻兵器となって死んでいった日本の若者たち、きっとYou Tubeで知ったのだろう。
 悲しくつらい命令に従い、次々に突っ込んでいった、それを、拳を握り締めて見てくれていたようだ。

 8月15日の終戦記念日、あの暑い日に、背広・ネクタイを着用して、長い列に並んでいる浅黒い肌の外人たちがいた。

 彼らの死を見つめてくれる異国の人々であった。