講演会「フィレンツェ・ルネサンス美術と近代的経済システムの誕生」に行ってきました(2015.3.21)@イタリア文化会館
この講演会の前日 ちょうどルーブル美術館展(国立新美術館/六本木)に行ってきたのですが そこで見た「徴税史たち」(マリヌス・ファン・レイメルスヴァ―レ/ルーブル美術館)とほぼそっくりの「高利貸し」(マリヌス・ファン・レイメルスヴァ―レ/フィレンツェ・シュティッベルト博物館)という絵が このボッティチェリ展にも来ているのに気づきました!! 同じ作家の模写ですが 解説には「フランドルでは、この図像が人気を博し、多くのバリエーションが制作されました。」とありました
このように 黄金期のフィレンツェで発達した金融業や銀行業と芸術「money and beauty」が この講演会のテーマでした:
ルネサンスの舞台裏で 繁栄を支えた金融業者
展示されている「フィオリーノ金貨」(1252~1303/個人蔵)は 1237年に自由都市となったフィレンツェの語源フィオーレ つまり花の都を象徴しており 裏側には聖ヨハネが刻まれています 当時の造幣局(Zecca)の使命は 貨幣の流通を管理し偽造を防ぐことでもありました
さてその両替商は 最初は道端のbanco(台、机)から始まり次第に屋内のbancone(カウンター)になってゆき やがてbanca(銀行)へと発展してゆきました
信用貸付が拡大し キリスト教は高利貸し業(usuraio)等を反道徳的とみなして禁じていたため 当時は「利益を数えるな」とされ 社会に偏見がありました
聖アンブロージウスの「与えられたもの以上を受け取るな」との言葉にあるように 利子を受け取ることを認めず さらに両替商等にキリスト教での埋葬を禁じた時期もあったとのこと
その後 「メセナ活動」が生まれて 富で善行を成すことが社会に認められていったそうです
捨て子の養育などの社会事業もあったとのこと
特にフィレンツェでは コジモ・ディ・メディチが力を成し サンマルコ修道院 サン・ロレンツォ サンタクローチェ聖堂などを次々と修復してゆきました
1462年にフランチェスコ修道会が公営質屋を起こし 品物を担保にしていました
* 解説には「15世紀のキリスト教世界では、富を循環させる銀行業は金利で儲ける高利貸しと明確に区別され、近代金融業の礎となりました。」とあります
* * *
交易の安全を見守る天使
100年戦争も終わり アメリゴ・ベスプッチが新大陸を発見し 絹産業も発達してゆき 陸路で運ばれてゆきました
しかし 陸路であれば盗賊が 海路であれば海賊が出没し 嵐や病も襲い そのため遺言を残してから旅立ったとのこと
当時為替手形が生まれたことにより (おそらく13世紀末頃) 大きなリスクを犯して現金を運ぶ危険を回避できるようになりました また 複式簿記も発明されました
また 無意味な贅沢や浪費を抑制する(特に女性の贅沢な衣装や装飾品等に対して)奢侈(しゃし)禁止令も出されていたとのこと それが経済の発展と相反していたことも指摘されました
中世では 社会階層を明確に識別することが一大原則とされていたため 贅沢な衣装や装飾品をむやみに身につけることが疎まれ たとえば「ボタン穴のないボタンはつけるな」とされていたそうで 飾りボタンが禁止されたり あるいは「襟元は鎖骨から指一本分まであけてよい」とされていたが 民衆はあえて平行にではなく垂直に(笑)指1本分襟元をあけていたとのこと 服の数まで制限されていたというから驚きです
* * *
壮麗な結婚式に見る 富めるフィレンツェ
今回展示される「聖母マリアの結婚」(フラ・アンジェリコ/1432~35、第3章です)にも見られるように 当時の結婚式は壮麗で 特に輿入れは大衆の前で結婚を証明するものでもありました
寝室にはカッソーネ(cassone/長持))いう大きな箱がしつらえられ 出産盆(出産祝いを載せる盆)というものがあり 結婚後はカッソーネや壁に組み込まれたそうです
中でも出産の危険は当時大きく 男性は通商の旅に出ることで命の危険 女性は出産の危険と闘わねばならなかった時代でした 当時 特に支配階級の女性は十代くらいで嫁ぎ まずは親戚や仲人が話合い 婚約の儀式に続き輿入れ 一年もたたずに身ごもって 出産のお祝い品を持って駆けつけた人々の前で 母親となった女性は豪華な衣装を着て彼らを迎えたという時代でした
* * *
聖書の場面にもメディチ家が登場
今回展示される「東方の三博士の礼拝」(1475年、ボッティチェリ30才の作品/ウフィツィ美術館)の右端にはボッティチェリの自画像が描かれていますが その絵の左には ロレンツォ豪華王(Lorenzo il Manifico/当時25才)の姿も描かれており その親密さを表していました
「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」(1477~1480/ピアチェンツァ市立博物館)の完成後に支払われた報酬の記録も示されました これはF.ゴンサーガへの贈り物だったとのこと
*この作品は3/21~5/6の期間限定出品です 日本初公開!!
また ベルリンにある「聖母子と聖ヨハネ」(1485)に使われたウルトラマリンという青い顔料は 当時大変高価だったため 画家の報酬よりも高かったとのこと まだ当時は芸術家は所詮は職人にすぎなかったことの表れでしょうか
さて5メートルもある大きな作品「受胎告知」(ボッティチェリ/1481/ウフィツィ美術館)ですが 中庭のある家の中でマリアが告知を受けるこの絵はマリアの後ろの白いレースが「ホルトゥス・コンクルーズス(処女性)」を表しているとのこと
そして講演はサヴォナローラの焚書の話に移ってゆきます ボッティチェリの姉がサヴォナローラを信奉していたため彼は初期の絵を焼き捨てますが 自らは焼かなかったと言われます
1498年にサヴォナローラは「虚飾の焼却」が行われたと同じシニョ―リア広場で火刑に処されます その凄惨な様子も示されました 民衆はこれまでの虚飾や贅沢をしていた支配層をきらい サヴォナローラに従ったのでしょう
会場ではチケットやパンフレットが販売され 満杯の聴衆で同時通訳レシーバーを聞きながら よどみなく話される館長の話を聞き取るのが精いっぱいでしたが 早く展覧会に行ってこの目で確かめたいですね(#^.^#)
* * *
ボッティチェリとルネサンス展は こちら
「展覧会の構成とおもな作品紹介」は こちら
学芸員による主な作品コラムは こちら
講演会開催のお知らせは こちら
また 芸術新潮の4月号に関連した記事が掲載されています(*^^)v
事前に読んでおいてから 当日は薄暗い中で小さな字を必死で読まずにすむようにしたいと いつも心がけております(;'∀')
* 5月10日(日)に 日伊学院主催で このボッティチェリ展をイタリア人講師の解説つきで見に行くという文化講座を開催予定です きっと美術鑑賞で使う語彙が増えることと思います!!
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この講演会の前日 ちょうどルーブル美術館展(国立新美術館/六本木)に行ってきたのですが そこで見た「徴税史たち」(マリヌス・ファン・レイメルスヴァ―レ/ルーブル美術館)とほぼそっくりの「高利貸し」(マリヌス・ファン・レイメルスヴァ―レ/フィレンツェ・シュティッベルト博物館)という絵が このボッティチェリ展にも来ているのに気づきました!! 同じ作家の模写ですが 解説には「フランドルでは、この図像が人気を博し、多くのバリエーションが制作されました。」とありました
このように 黄金期のフィレンツェで発達した金融業や銀行業と芸術「money and beauty」が この講演会のテーマでした:
ルネサンスの舞台裏で 繁栄を支えた金融業者
展示されている「フィオリーノ金貨」(1252~1303/個人蔵)は 1237年に自由都市となったフィレンツェの語源フィオーレ つまり花の都を象徴しており 裏側には聖ヨハネが刻まれています 当時の造幣局(Zecca)の使命は 貨幣の流通を管理し偽造を防ぐことでもありました
さてその両替商は 最初は道端のbanco(台、机)から始まり次第に屋内のbancone(カウンター)になってゆき やがてbanca(銀行)へと発展してゆきました
信用貸付が拡大し キリスト教は高利貸し業(usuraio)等を反道徳的とみなして禁じていたため 当時は「利益を数えるな」とされ 社会に偏見がありました
聖アンブロージウスの「与えられたもの以上を受け取るな」との言葉にあるように 利子を受け取ることを認めず さらに両替商等にキリスト教での埋葬を禁じた時期もあったとのこと
その後 「メセナ活動」が生まれて 富で善行を成すことが社会に認められていったそうです
捨て子の養育などの社会事業もあったとのこと
特にフィレンツェでは コジモ・ディ・メディチが力を成し サンマルコ修道院 サン・ロレンツォ サンタクローチェ聖堂などを次々と修復してゆきました
1462年にフランチェスコ修道会が公営質屋を起こし 品物を担保にしていました
* 解説には「15世紀のキリスト教世界では、富を循環させる銀行業は金利で儲ける高利貸しと明確に区別され、近代金融業の礎となりました。」とあります
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交易の安全を見守る天使
100年戦争も終わり アメリゴ・ベスプッチが新大陸を発見し 絹産業も発達してゆき 陸路で運ばれてゆきました
しかし 陸路であれば盗賊が 海路であれば海賊が出没し 嵐や病も襲い そのため遺言を残してから旅立ったとのこと
当時為替手形が生まれたことにより (おそらく13世紀末頃) 大きなリスクを犯して現金を運ぶ危険を回避できるようになりました また 複式簿記も発明されました
また 無意味な贅沢や浪費を抑制する(特に女性の贅沢な衣装や装飾品等に対して)奢侈(しゃし)禁止令も出されていたとのこと それが経済の発展と相反していたことも指摘されました
中世では 社会階層を明確に識別することが一大原則とされていたため 贅沢な衣装や装飾品をむやみに身につけることが疎まれ たとえば「ボタン穴のないボタンはつけるな」とされていたそうで 飾りボタンが禁止されたり あるいは「襟元は鎖骨から指一本分まであけてよい」とされていたが 民衆はあえて平行にではなく垂直に(笑)指1本分襟元をあけていたとのこと 服の数まで制限されていたというから驚きです
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壮麗な結婚式に見る 富めるフィレンツェ
今回展示される「聖母マリアの結婚」(フラ・アンジェリコ/1432~35、第3章です)にも見られるように 当時の結婚式は壮麗で 特に輿入れは大衆の前で結婚を証明するものでもありました
寝室にはカッソーネ(cassone/長持))いう大きな箱がしつらえられ 出産盆(出産祝いを載せる盆)というものがあり 結婚後はカッソーネや壁に組み込まれたそうです
中でも出産の危険は当時大きく 男性は通商の旅に出ることで命の危険 女性は出産の危険と闘わねばならなかった時代でした 当時 特に支配階級の女性は十代くらいで嫁ぎ まずは親戚や仲人が話合い 婚約の儀式に続き輿入れ 一年もたたずに身ごもって 出産のお祝い品を持って駆けつけた人々の前で 母親となった女性は豪華な衣装を着て彼らを迎えたという時代でした
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聖書の場面にもメディチ家が登場
今回展示される「東方の三博士の礼拝」(1475年、ボッティチェリ30才の作品/ウフィツィ美術館)の右端にはボッティチェリの自画像が描かれていますが その絵の左には ロレンツォ豪華王(Lorenzo il Manifico/当時25才)の姿も描かれており その親密さを表していました
「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」(1477~1480/ピアチェンツァ市立博物館)の完成後に支払われた報酬の記録も示されました これはF.ゴンサーガへの贈り物だったとのこと
*この作品は3/21~5/6の期間限定出品です 日本初公開!!
また ベルリンにある「聖母子と聖ヨハネ」(1485)に使われたウルトラマリンという青い顔料は 当時大変高価だったため 画家の報酬よりも高かったとのこと まだ当時は芸術家は所詮は職人にすぎなかったことの表れでしょうか
さて5メートルもある大きな作品「受胎告知」(ボッティチェリ/1481/ウフィツィ美術館)ですが 中庭のある家の中でマリアが告知を受けるこの絵はマリアの後ろの白いレースが「ホルトゥス・コンクルーズス(処女性)」を表しているとのこと
そして講演はサヴォナローラの焚書の話に移ってゆきます ボッティチェリの姉がサヴォナローラを信奉していたため彼は初期の絵を焼き捨てますが 自らは焼かなかったと言われます
1498年にサヴォナローラは「虚飾の焼却」が行われたと同じシニョ―リア広場で火刑に処されます その凄惨な様子も示されました 民衆はこれまでの虚飾や贅沢をしていた支配層をきらい サヴォナローラに従ったのでしょう
会場ではチケットやパンフレットが販売され 満杯の聴衆で同時通訳レシーバーを聞きながら よどみなく話される館長の話を聞き取るのが精いっぱいでしたが 早く展覧会に行ってこの目で確かめたいですね(#^.^#)
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ボッティチェリとルネサンス展は こちら
「展覧会の構成とおもな作品紹介」は こちら
学芸員による主な作品コラムは こちら
講演会開催のお知らせは こちら
また 芸術新潮の4月号に関連した記事が掲載されています(*^^)v
事前に読んでおいてから 当日は薄暗い中で小さな字を必死で読まずにすむようにしたいと いつも心がけております(;'∀')
* 5月10日(日)に 日伊学院主催で このボッティチェリ展をイタリア人講師の解説つきで見に行くという文化講座を開催予定です きっと美術鑑賞で使う語彙が増えることと思います!!
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