杏林大学教授の精神医学者・田島治さんが2008年に上梓した『社会不安障害 -社交恐怖の病理を解く』(ちくま新書)は名著である。
田島さんは1950年生まれで、杏林大学医学部卒、現在、杏林大学保健学部教授(医学部精神神経科兼担教授)だが、うつ病と社交不安障害の薬理学と治療において日本トップの実力をもっている。
社交不安障害(social anxiety disorder、略してSAD)とは、社会不安障害とも呼ばれるが、かつて日本で「対人恐怖症」と呼ばれた神経症の普遍的・国際的病名である。
我々の中には人前で緊張したり、大勢の人の前で話したりするとき緊張を感じる普遍的心理がある。
これは人によって強弱がある感情だが、ある種の人々はその緊張・不安・憂鬱が日常生活に支障をきたし、社会的引きこもりに至る場合がある。
つまり、単なる人見知り・内気・シャイネスを超えて病気のレベルにまで高まっている例があるのだ。
この病気のレベルの「あがり症」を「社交不安障害(SAD)」と言うのである。
普通のあがり症や内気や恥ずかしがりは、人と交流したり社会経験を積んだりしているうちに次第に症状が軽くなり、治ったりするが、精神疾患とみなせるSADの場合、いつまでも症状が軽減化しないのみならず、無理に社交的にふるまったり逆説志向的行動に出ると悪化してしまう。
年を取って社会的に成熟するから治るというものではないのは、虫歯や糖尿病や高血圧症と同じである。
しかし、多くの人はSADを性格のせいであるとか甘えだと決めつけて、病気として治療しようとは思わない。
つまり、精神科ないし心療内科を受診しようとはしないでがまんしているのである。
こうした傾向の背景には日本特有の悪しき精神主義の伝統が控えている。
しかし、どうしても症状が治まらず、むしろ悪化していくので、患者はアルコール依存になったり、うつ状態になったり、自殺念慮が強くなったりする。
こうした傾向に歯止めをかけ、SADに関する正確な知識を伝授し、多くの隠れた患者を救おうとして書かれた啓蒙書、それが田島治さんの『社会不安障害』なのである。
田島さんはこの本の前書きで、まず最近の日本における自殺者の増加を指摘し、次に2005年頃からSADについての啓発広告がメディアに多数現れ始めたことを指摘している。
そして、性格のせいと思われていたSADが本当の医学的疾患であり、薬での治療が有意に有効であることが分かったことを指摘している。
本文に入ると、田島さんは、この病気が日本特有のものではなく世界中に存在する普遍的な精神疾患であることを強調する。
SADがかつて対人恐怖症と呼ばれていたものにあたることは既に述べた。
対人恐怖は日本的精神文化と人間関係性に根差した日本特有の心の病とみなされていたものであるが、実は世界中に昔から散在した普遍的な病だったのである。
そういえば、ウィトゲンシュタインやニュートンやムンクの伝記を読むと、SAD の傾向が表れている。
他にもいっぱいいる。
そこで、田島さんはSADが薬で治療すべき普遍的な脳神経系の病であるという観点から、薬物療法の有効性を主張し、その詳細を分かりやすく説明している。
もちろん、薬物療法だけではなく認知行動療法という精神療法の一種を併用しなければならないのだが、とかく精神主義的に「甘え」とか「性格のせい」と誤解されやい傾向を打破するためには、薬物療法の重要性を知ることは大切なので、田島さんの話に傾聴したくなる。
それではどういう薬を使うのかというと、それはSSRI(選択的セロトニン再取り込阻害薬)という抗うつ薬の一種である。
特にルボックスあるいはデプロメールという商品名が付けられている「マレイン酸フルボキサミン」という薬が有効である。
これを第一選択肢として、それに従来使われている抗不安薬を頓服として付け加えつつ、症状を軽減化していくのである。
その際、随時認知行動療法が付け加えられる。
田島さんは、自ら治療した患者の症例と治療経過を紹介しつつ、SSRIの治療効果を説明している。
ところで、SADが本当の精神疾患ではなくて単なる内気にすぎず、精神科医と製薬会社が不当に疾患として宣伝している、という批判はアメリカを中心として全世界に散在している。
田島さんはこの批判に真っ向から対峙し、それを論破している。
この点は非常に重要である。
それから田島さんはSADにおける「脳と心」の関係について説明している。
ここではSADが強迫性障害(かつて強迫神経症と呼ばれていたもの)と関連が深いことを指摘している。
この点も重要である。
とにかく、田島さんは私立医大出身らしく、臨床と治療を最重視する傾向が強く、実学志向なので、その叙述・説明は分かりやすく、説得力がある。
また田島さんはうつ病とSADの薬物療法の第一人者であるだけではなく、薬物療法の弊害の啓発における第一人者でもあるのだ。
こうした姿勢が本書の随所に表れている。
社交不安障害に関する本は既に多数出版されているが、田島さんのこの本が最初に読むには最も適している。
新書で安く、読みやすいし。