2010年の都立日比谷高校の国語の問題に引用された『情報の形而上学』の一節(本では168-173ページ)を三回に分けて掲載します。
創発とは予期せぬ事態が起ることである。また要素の線形的加算からは全体の性質は導き出せない、ということである。北京オリンピック男子百メートルの決勝でジャマイカのウサイン・ボルト選手は九・六九秒という驚異的記録を出して優勝した。しかも後半余裕の走りをしてこの記録であった。短距離走の世界記録はオリンピックや国際陸上大会の決勝で出やすい。なぜなら、決勝に残った八人の選手はみな精鋭であり、第一コースから第八コースまで粒が揃うからである。こうして八人は力を出し合って競合的「協力現象(シナジー)」を引き起こす。つまり、スタートダッシュから横並びの甲乙つけがたい猛者たちがお互いの力を引き出し合い、結果として優勝候補の記録に拍車を駆けるのである。一人で走っていては競合者の刺激がないので記録が伸びない。また、レベルの低い選手に囲まれて走っても記録への潜在能力は引き出されない。ボルト選手の世界記録樹立はまさに創発現象であった。
また、北京オリンピック男子百×四リレーでは個々の選手のレベルがあまり高くない日本チームが健闘して銅メダルを取った。もちろん優勝したのは四人のレベルが非常に高いジャマイカであったが、構成員のレベルがみな高ければ金メダルを取れると言えないのがリレーというものなのである。たとえば百メートルを十秒ジャストで走る選手四人のチームと九・九秒で走る選手四人のチームを比較すると、線形的思考では前者が後者に勝てる見込みがない。しかし、現実には前者が後者に勝つことが少なからずある。まずバトンパスに失敗するというのはよくあることで、アメリカチームに特徴的な現象である。また個人記録に力点を置く強豪国はリレーの練習をあまりしない。そこでバトンを落とすことはないけれどパスの際にもたついたりして遅れることがある。それに対して、個々の選手の力がそれほどでもない日本のようなチームは、まず間違えることのないバトンパスと全体のスムーズな流れで健闘し、予想外のメダル獲得に至るのである。これもまた創発的現象である。
我々はみな小学校から高校までに習った算数や数学に毒されており、世の中すべて1+1=2のようにすんなり割り切れると思い込んでいる。しかし現実の世界は多面的で複雑なので、とうていそのような割り切りでは括れない。1+1=2が間違いなのではない。ただ、それが複雑多面多層的な関係的世界の一局面を切り出したときにのみ当てはまるものだと言いたいのである。これは物理的世界にも当てはまることである。現実の世界が要素の線形的加算で理解できると考えるのは、(a+b)²=a²+b²とみなすようなものである。周知のように(a+b)²の解はa²+b²ではなくa²+2ab+b²である。これを前掲の例に当てはめてみると、2abは非線形的創発現象を引き起こす変数ないし結合要素として理解できる。つまり、リレーの場合2abはバトンパスと個々の選手のリレー向けの走りの熟達に当たるのである。これが全体としてのスムーズな走りを実現している。しかし、個々の要素にのみ着目して、その線形的加算から全体を捉えようとすると、(a+b)²=a²+b²とみなすような単純な間違いを犯してしまうのである。ボルトの場合2abは相乗効果を引き起こす変数として理解できる₍₃₎。