今日、アマゾンからKindle版として電子書籍『哲学的心境小説集』を出版しました。
これで私の著書は一般的な紙の書籍を含めて20冊になった。
よく書いたもんだ。
その内容。
今回の本で私が書いた哲学的短編小説集は八冊目となる。
ただし、今回は哲学的心境小説ということで、これまで書いてきた哲学的短編小説集とは一線を画す。
この本に収められた九編の短編小説はどれも一応心境小説ということになっているが、典型的な心境小説の枠に収まらない作品も含まれている。しかし、どの作品も物語性よりは主人公や登場人物の心境ないし意識の流れを重視したので、やはり心境小説の範疇に収まると思う。
私は意識哲学を専門にしている。その私が心境小説を書く場合、主人公の意識の流れと心境の変遷を緻密に描くのは当然のことである。それが上手く行っているかは分からないが、意図としてはそうなのである。
読者は、あまり心境小説という概念に拘らないで、九編の短編小説を味わってほしい。
九編の短編小説のタイトルとその意図するところは次のようなものである。
「私は二人いる ̶ いつも私を監視しているもう一人の私について」 唯一無二のこの私という観念を破壊するために、主我と客我の概念を援用しつつ、メタ意識の次元に属す、もう一人のより奥深い「私」、常に私を監視している謎の主体の正体を暗示した作品。個体性を超えた生命の大河そのものである大いなる我を象徴的に描いた短編である。このような主題こそ哲学的心境小説にふさわしいと思う。
「消し去りたい過去の記憶から逆照射される存在の真の意味」 我々は各自、耐えられない過去の嫌な記憶を有している。それは一見無視して忘れ去りたいもの、無かったことにしたいことだが、それをあえて直視することによって自己存在と存在全般の意味が仄かに光り輝き始めることを暗示した作品。そもそも過去のトラウマといっても、大したものではないし、もはや自分の記憶の中にしか残っていないことが多いのだ。そんなことをいつまでも悔やんでいないで、新たな存在の可能性に目を開こう、というわけである。それに関する心境、意識の流れを描いた秀作である。
「死後の世界が存在しないことは残念ながら確実だ」 これは長年、私が思念してきたことだが、近年ますますその確信が強くなってきた真実である。私は死後の生を信じる人の夢を砕くことに部類の快感を覚える。ぞくぞくする。だって、本当のことなんだもん。ねっ、みなさん。残念でした。でも、その先に存在の真の意味が光り輝くのよ。これを上から目線の心境で書くのが楽しいのだ。
「不老不死の実現は人類の滅亡と世界の破滅をもたらす凶事である」 このテーマはこれまで書いた短編小説の中で繰り返し扱ってきたが、今回は心境小説という形で象徴化した。不老不死の夢、幻想は人間の卑しい欲望の表れであり、自然の摂理に背いている。これをなんとかして挫かなければならない。そういう私の心境を短編小説化したものである。
「医学と哲学と人生」 長期療養生活に焦点を当てて、医学と哲学と人生の関係を心境小説風に描いた佳作。長引く闘病生活において人生観と死生観は哲学的に深まってゆくが、そこに医学の知見が欠けてはならないのである。その際、生命倫理よりは、生命科学に根差した生命哲学が要求される。それと臨床の知である。
「抗うつ薬による魂の救済」 普通、魂の救済というと、精神主義的な観点やスピリチュアルな次元を連想するが、ここでは抗うつ薬の重要性を示唆した。自殺企画が切迫した者に対する抗うつ薬の点滴は衝撃的である。方法は問題じゃない。とにかく、患者、悩める者の自殺を阻止し、それによって彼の魂を救済しなければならないのだ。そういう心境を描いた秀作。
「心と身体の関係はメビウスの帯である」 よく心身問題は「卵が先か鶏が先か」を問い詰めるような不毛さに満ちている、と言われる。しかし、その言明が軽薄な思考の産物であることを明らかにした逸品。心と身体の関係、心身問題については、これまで書いた短編小説で繰り返し扱ってきたが、今回は「メビウスの帯」の比喩を梃子にして、この問題への反論を粉砕した。心身問題はけっして不毛ではない。そういう心境を、心と身体の表裏一体性の観点から描いた佳作。
「時間と死生観」 死と時間、生と時間の関係はよく扱われるが、死生観と時間の関係をまとまった形で論じたものは少ない。だから、私は心境小説の形で、この問題の意義を象徴化しようとしたのだ。その叙述は秀逸。肌理が細かくて、深い。
「日本に哲学なし」 これも私が長年主張してきたこと。今回はその心境を心境小説化した。これですっきりした。なぜ、世界有数の先進国たる日本が哲学においては後進国なのか、よく分かる逸品。読んでいて痛快なはず。
この心境小説集の執筆を開始する三日前、私は北上尾駅近くの踏切で、遮断機が下りているにもかかわらず、待てなくて、自転車に通り抜けようとした。そして、危うく電車に轢かれそうになった。それはさすがに免れたが、その二分後、走行中に転倒して、右足を捻挫した。その後養生と小説の執筆が重なったのは幸いだった。そういう状態だと思索が深まり、創作力が増すのは小説家にとって常識である。特に心境小説の執筆において、そうなのは、あの「小説の神様」の『城之崎にて』を読めばわかる。
今回、執筆前にそれを読み返してみたが、死生観があまりに低級なのに呆れた。やはりこの人は小説家としいうよりは文章家なんだな。それだけ人だ、と改めて思った。志賀直哉には思想と哲学がない。あっても、極めてレベルが低い。しかし、短編小説を書く技術、その文体の歯切れの良さは天下一品だ。
私は最初それを見習おうと思ったが、やめた。やはり、文体や文章よりも内容が大事だ。中身のない随筆風の心境小説じゃ駄目だ。私が書こうとしているものは心境小説とはいえ、あくまで哲学的短編だ。この観点から、九編の哲学的心境小説を書いたのだ。読者はこの点を顧慮して、それぞれの作品を堪能してほしい。