心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学A1文章講義(第8回)

2020-05-23 09:09:20 | 哲学

テキスト第3章第4節には次のような文章がある。

 

そもそも「私」は常に「私ならざるもの」によって脅かされ、励まされ、暗示され、何か「より広いもの」に向けて誘導されている。

 

これは最初、2012年に出版された自著『創発する意識の自然学』で述べられ、今回のテキストのこの節で詳しくその意味を説明されたものである。

その説明は各自で読んでもらうことにして、ここではまた新たな説明を付け加えたいと思う。

 

私は子供の頃から内向的で神経質で、常に自分の内面と闘ってきた。

それゆえ私の意識は複雑で深い。

内的対話が豊富で内省力が強く、自己意識と自己存在の分析が緻密なのである。

自己への関心が強いと、自分を対象化するようになり、対象化する主体と対象化される自己の二元分裂が生じる。

私は人に比べて「自分が二人いる」と思うことが多い。

誰もがそういう体験をすると思うが、私は特に多い。

一体「自分が二人いる」とは、いかなることなのであろうか。

 

「悪魔のささやき」とか「良心の呵責」とか「内面的葛藤」という言葉が流布しているのは、実は誰もがこの自己分裂を体験している証拠である。

アニメ的に脳の内部の様子を悪魔と天使の対決として描いたものがよくある。

その際、天使は小我を超えた大我を示唆し、「私」の中の「私ならざるもの」ないし「私を超えたもの」を暗示する。

それは、自己の生命を超えて自然の大生命と直結し、何か「より広いもの」とつながっている。

それは、個々の「私」を超えて、生命の大元に深く根付き、私の日常の意識の流れを対象化し反省する能力をもっている。

この大我にあたるものが、自己の主観性に囚われた小我を対象化し反省し、自己を拡散しようとするのである。

 

生命の本質を考えるにあたって以上のことは極めて重要である。

私個人の「死」とそれに対する実存的不安は切実で、小我は一見かけがえのないもののように思われるが、生命の大いなる連鎖と自然の大生命に思いを馳せるなら、

それらと直結した大我の重要性が分かるはずである。

 

死生観と自我理解ないし自己意識は密接に関係し、自己のかけがえのなさに囚われると、自己の中に自己を超えたものが潜んでいることが分からなくなる。

私の中には私を超えたものが潜在し、自我と自然を融合する方向に導こうとするのだ。

その誘導、ささやきに気づくことが、生命の深い意味を感得することにつながる。

その際、我々は一見個々の存在として分断しいるように見えて、根底においては皆つながっているのだ、という深い生命観を我々各自に授けてくれる。

問題は「私の個性」「私のかけがえのなさ」が平板化され、全体主義へと溶かし込まれるかのような印象をこうした主張から感じてしまうことにある。

そんなことは全くない。

我々各自は自分の個性を生かし、同時に他人の人格と個性と趣向を尊重し、個人主義の王国を築くことができるのだ。

 

そもそも、「小我を超えた大我に至れ」という主張のどこに個人主義を否定する要素があると言うのだろうか。

生命の大いなる連鎖の呼びかけに聴き入るという姿勢は、個性と創造性と自由をいかんなく発揮する人生を各自に約束するであろう。

それと同時に世界平和と環境保護に尋常ならざる寄与をするであろう。

これによって各「私」は、自然の大生命と一体になるのだ。

 

僕は生命の源の中を泳いでいるんだにゃ。

 


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