心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学A1の文章講義(第4回目)

2020-05-10 09:26:14 | 哲学

昨日の番組で池江璃花子さんは、自分が白血病になってオリンピックに出場できないことなったことについて、「その方がよかった。実はそれを望んでいた」という意外な本音を吐露していた。

その理由として、自他からの並々ならぬプレッシャーのことを述べていた。

つまり、メダル獲得という重責の心理的圧力に苛まれていたことを告白していた。

強いストレスが免疫力を弱め、感染症やがんの発生を助長することはよく知られている。

池江さんの白血病がそうだとは言い切れないが、何らかの形で関与していたことは否定できない。

もちろん、過酷な肉体的鍛錬も関与していたであろうし、遺伝子的基盤もあったであろう。

しかし、心身共に無理が重なっていたことは確かなのである。

 

池江さんは突然、急性リンパ性白血病発症を医師から告知され、当然絶望し、その後の過酷で「しんどい」治療を数か月続けた。

「しんどい」という関西弁を池江さんは好んで使うが、彼女の苦痛と苦悩をよく表している。

とにかく、白血病などのがんの治療は過酷で副作用が強烈である。

特に抗がん剤による化学療法は想像を絶する苦しみを伴うことがある。

池江さんは番組の中で何度も「死んだほうがましなような苦しみだった」と語っていた。

造血幹細胞移植も受けだが、これも地獄の苦しみを伴った。

 

そのどん底、地獄からなんとか生還し、一応日常生活に戻れたが、あの筋肉隆々だったアスリートの肉体は無残にやせ細っていた。

彼女は今年の3月まで、先述の本音の裏の真の本音として、今年の東京オリンピックに出れないことを歯ぎしりして悔やんでいたと思う。

 

ところが、その頃、日本は東京を中心として中国由来の新型コロナウイルス感染症が広がり始め、ついにオリンピックの一年延期が決定する。

一年延期といっても実質中止のようなものである。

これをニュースで知った池江さんの心情は複雑なものであったろう。

まさか「ざまあみろ。私を差し置いて二流選手が出るなんて百年早い!!」などという悪魔のささやきが彼女の心を占拠するわけはない。

しかし、人間の本音として、そういう気もちはないわけがないのである。

これによって彼女の暗い気分、絶望、劣等感が少し癒されたことは想像に難くない。

ただし、それは裏を返せば「自分と同じように悔しい思いをしている仲間が大量に増えた」という微かな喜びでもあるのだ。

他人の不幸は蜜の味と言ったら失礼に当たるが、そんなに聖人君子ぶる必要もないだろう。

 

それよりも池江さんの心情の核心にあたり、事の真相に関与するのは彼女の次の発言である。

彼女は今回、東京オリンピック出場の夢を立ち切られた健康な選手たちの気持ちについて「めちゃめちゃわかる。目の前の大きな目標を失った感じ。当たり前のことが非日常になっちゃう。ある日突

然」と、自身が白血病になった時の気持ちを思い出すように語ったのである。 

これは重要な注目すべき発言内容である。

 

我々は平和で順調な日々の生活を送っていると、いつのまにか平和ボケ、安泰ボケ、悩みのない健康馬鹿、薄っぺらいリア充になってしまう。

これは「日常性」というぬるま湯に浸りきって、「非日常性」ないし「危機的状況」ないし「突発事象」に対して極めて鈍感になってしまうことを意味する。

ところが、ある日突然この平和で順調な日常性が座礁し、「非日常性」が突出してくることがある。

それは老若男女、金持ち・貧乏、勝ち組・負け組、正規・非正規、健康・不健康の区別を無視して万人に平等に襲い掛かってくる。

そして、それに見舞われた者は皆、これまで何ともないと思っていた日常性が極めて貴重なものだったのだ、という意識に支配される。

池江さんは緊急事態宣言が発令され、外出自粛要請が続く日々の中で次のような意識を発露している。

 

「正直病院から出て、まさか日常生活でこういうふうになるとは思っていなかったので、正直ちょっと残念というか…仕方ないんですけど。皆の自由が奪われちゃうってのもあるけど、普通に生活しているのは当たり前だけど、当たり前じゃないし、そういう日常生活に対する感謝を考えさせられた」。

 

我々のうち彼女のように急性白血病に罹って生死をさまよう者は極めてまれである。

だから、病苦を他人事のように思ってしまう。

しかし、そうこうするうちに我々全員が病苦によらない極めて深刻な災難に見舞われることになった。

新型コロナウイルスのパンデミックの進展による自粛要請である。

選抜甲子園大会中止、大相撲無観客取り組み、百貨店、飲食店、ジム、映画館、ライブハウス、パチンカス屋その他の全面的に近い休業。

そして、小中高などの学校の数か月にわたる休校。

大学ではほとんどすべて遠隔オンライン授業となり、学生の5人に1人が退学を考える事態に急遽転落した!!

こうした苦境を去年の末まで、いや今年の3月まで誰も想像だにしなかった。

こんなことありえない、という意識に支配されたいた。

私は十年前からこうした危機的突発事象の可能性について授業中繰り返し訴えてきたが、学生は上の空で「そんなことないよ。心配しすぎだよ」という顔付で聴いていた。

 

ただし、私自身が思い描いていたのは地震に代表される自然災害による危機的状況であり、今回のような感染症は顧慮していなかった。

しかし、東京オリンピックを邪魔するなんらかの凶事が高い確率で起こるという憂慮はどうしても消えなかった。

そして、やっぱり起こった。

しかも、最悪の形で。

今、この記事を書いている最中にも上尾市の緊急防災の有線放送で不要不急の外出自粛を強く要請している。

 

今回の災害は巨大地震や原発事故や巨大台風や戦争のような派手さはないが、実はその破壊力は絶大である。

これまでの人類の歴史において最大の死者を出してきたのは戦争でも巨大自然災害でもなく感染症なのである。

中世ヨーロッパにおけるペストや1929年前後のスペイン風邪パンデミックなどがその代表だが、今回のはそれと少しニュアンスが違う。

医学や医療制度や衛生習慣・制度が格段に発達した現在の世界だが、その文明化と人口増加とグローバル化が仇となって、経済への打撃を介した貧困死、自殺の危険性が極限まで高くなってしまった

のである。

 

若い人を中心としてまだ楽天観に浸されている人は、この経済崩壊、医療崩壊、大量失業、学業断念、就職超氷河期の訪れということが分かっていないのである。

ただし、若者でも既に苦境に立たされ、明日の生活もままならない人は身に沁みて分かっているだろう。

飲食業、ホテル、旅館、タクシー業界、バス運転手の中には絶望する人が蔓延し始めた。

絶望とは死に至る病であり、身体が健康なままで死ぬのである。

 

私は実は日常性が若い頃から嫌いであった。

逆に非日常性が突出してくるとハイになるのである。

理学部に飽き足らず、哲学に進んだのも納得である。

私がリア充を軽薄な馬鹿と罵ったら「リア充とはリアルが充実しているという意味だから、先生の批判は当たってない」と反論してきた学生がいたが、今の世界的危機、外出抑制についてこの

学生は何を思うであろうか。

「人との接触を極力避け、社会的距離を空け、会食、合コン、飲み会などもってのほか」という世界的命令はリア充死刑に当たるのではないだろうか。

リア充とはリアル、つまり積極的外交の現実が充実しているだけの快楽主義なのである。

それは弱い者、孤独な暗い人、病人に対する蔑視という意識に支配されている。

リア充肯定者本人はそれを認めないであろうけど。

偽善的だからである。

 

私は、安倍や小池はリア充だと思うが、大阪府知事や北海道知事はそうだと思わない。

後者は真の社会貢献者、道徳実践者であり、それこそ日常性の快楽主義のぬるま湯を超えた「社会的現実」「集合的福祉」「他人への真の思いやり」という「反リア充的な現実」が充実している

ということなのである。

 

今や皆が哲学しなければならない事態となった。

それも人類絶滅の危機とトランスパーソナル・エコロジーの関係を見据えた超-哲学を。

とにかく、改めて生態系の中での人間存在の意味を深く考えなければならない。

パチンカス屋も。

 

 

 

 

 

 


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