心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

心の哲学と美学、その他なんでもあり

哲学A1文章講義(第6回)

2020-05-19 08:21:51 | 哲学

テキスト第3章の第2節は「この宇宙に生命と意識が誕生したという驚異的事実」を論じている。

これは生命論と存在論の接点を示唆する問題である。

さらに宇宙論も関わってくる壮大な問題設定である。

普通、生命の本質を考える場合、万物の根元とか宇宙の始原について顧慮しない。

全く顧慮しないわけではないが、そこまで深く考えることはないのである。

しかし、哲学的生命論ないし生命哲学の究極は存在論と合流し、個々の生命体の生死を超えた森羅万象(宇宙の全存在、宇宙の大生命)にまで視野が広がる。

思索ないし思考が深まる、と言ってもよい。

一応、150億年前にビックバンによって誕生したとされる宇宙は、物質の分子的進化を累進させ、今から約40億年前に生命の原基となる有機高分子RNAとDNAを創発させた。

ここで「創発させた」というのは、単純な因果関係を超えて予想もつかない突発的様相において進化的に、つまり前向きに、未来につながる生成的様態において「発生した」ということである。

高分子の場合には「結晶化した」と言われる。

とにかく、我々が今日よく使うRNA(リボ核酸)とDNA(デオキシリボ核酸)がこの宇宙の物質的進化の中で偶然発生したのである。

これは近代科学の機械論的自然観、ならびに生命現象を物理・化学的過程へと還元する従来の唯物論的生命観からはうまく説明がつかない。

生命の「創発」は単純な因果関係を超えた偶然性をもっているのである。

しかし、これは消極的な投げやりな説明ではなく、「創造性」「進化」「発展」「生成」というポジティヴな意味を含んでいるのである。

特に「創造性」という契機は重要である。

 

このように宇宙の物質の分子的進化における生命の創発は、「生命を生み出すような物質は近代科学ないし古代から続く機械論的物質観だけでは説明がつかない」ということを示唆する。

つまり、なぜか進化し複雑化し生命を創発せしめ、ひいては精神現象まで創発せしめた物質系は、従来の物理学と化学が規定するような単純なものではなく、ある神秘的要素を含んでいる、

ということを暗示しているのである。

しかし、ここから物心二元論や神秘主義や宗教に逃げてはならない。

あくまで、哲学と科学の協力による自然主義的で合理主義的な思考法によって事の本質を見抜くことが要求されるのである。

その際「情報」という概念が重要な役割を果たすことになる。

それについては後の方の章で詳しく説明されるので、今はこれぐらいにしておく。

 

とにかく、我々の意識は脳内の神経的情報処理の産物だとしても、その背景には宇宙の物質進化における生命の創発との連続性が控えており、結局はアリストテレスの形相因と目的因を顧慮しなけれ

ばならないのである。

このこともまた後の方の章で詳しく説明される。

我々の身体も脳も意識もその基盤に「形相因と目的因を含んだ情報的物質」があり、それによってそのシステムと秩序が形成されているのである。

我々が「なぜ私はこのときここに存在し、あの時あそこに存在するのではないのか。なぜそもそも世界と私は存在するのか。なぜ死すべき運命なのに生きてゆかなければならないのか」という問いを

発する意識の背景には、以上に述べたような「この宇宙に生命と意識が誕生したという驚異的事実」が控えているのである。

 

なお、この節での重要な点は「生命」が「物質」と「心」の中間に位置し、両者を統合する媒介的契機となる、ということである。

特に生命と心、生命と意識の関係に注目してほしい。

 

(注) アリストテレスが言う「形相因」は物事、存在物、生物の本質に関わる原因概念であり、「目的因」とはそれらが何のためにあるのか、何を目指して生成・進化するのかに関わる原因概念である。我々が普通「原因」というと、まず「質料因」と「始動因」を考える。質料因とは要するに物質的基盤、構成に関わる原因概念であり、始動因とは物事の存在や運動や活動の開始、始動に関わるん概念である。近代科学に毒された常識的自然観では、形相因と目的因は無視される。これは近代科学の機械論的自然観と技術万能主義の弊害である。それに対して、現代のニューサイエンスでは形相因と目的因が洗練された形で復興している。そして、哲学との協力関係が見られる。

 

びっくりしたにゃー

 

 

 

 


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