福島ズボラーヌ

https://blog.goo.ne.jp/nekozora-f

大阪市福島区(並びにその周辺)をうろうろ徘徊。

大石内蔵助寓居跡

2013-01-27 | ・福島:風景・建築・史跡
三善貞司さんの「大阪伝承地誌集成」に、
旧上福島村あたりに、忠臣蔵で有名な大石内蔵助の仮住いがあったと書かれています。
出典は江戸時代に出版された観光ガイドブック「摂津名所図会大成」。
この本は有名な「摂津名所図会」とはまた違う書籍です。

その本によりますと、内蔵助が住んでいたのは浄祐寺(北区堂島)の西側。
そしてその家は「仮名手本忠臣蔵」に登場する大坂の商人、天野屋利兵衛の別荘でした。

「大坂見聞録 関宿藩士池田正樹の難波探訪」(渡邊忠司)という本にも
大阪の福島あたりに天野屋利兵衛の別荘があり、
そこに内蔵助が身を寄せていたという記述があります。
この本は江戸時代の武士の大坂赴任中の暮らしをつづった
「難波噺」という随筆について書かれたもので、
大坂の市中や郊外に観光に出かけた記録も掲載されています。



「wikipedia:仮名手本忠臣蔵」旧字体:假名手本忠臣藏。
「wikipedia:大石良雄」「良雄」は諱で、通称は「内蔵助」。
「wikipedia:天野屋利兵衛」十段目で天河屋義平として登場。

「大阪伝承地誌集成」には別項目に「天野屋利兵衛宅跡」があり、
浄祐寺の北にある「鵲の森」に
天野屋利兵衛の屋敷があった、と書かれています。
古い地図を何種類か見ましたが、鵲の森なる場所は見当たりません。
個人的な考えですが、浄祐寺の近くに架かっていた梅田橋にちなんだ地名ではないでしょうか。
江戸時代に大ヒットした「曽根崎心中」の中に、
梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星』という詞章があります。
芝居好きの人の間で、梅田橋を「鵲の橋」を呼ぶようになり、
梅田橋の北側にある森を「鵲の森」と呼んでいたのではないか。

内蔵助が天野屋と関わりをもつようになった経緯を詳しく書いた物語もありますが
実際に天野屋利兵衛が赤穂浪士に協力したという事実は無いらしい。
したがって、大石内蔵助が上福島に住んでいたという説はフィクションのようです。
(でも天野屋さんの別荘はあったかもしれないなぁ…)

浄祐寺には赤穂浪士のお墓がありますし、
大阪市北区の円通院には内蔵助のお父さんのお墓があるので、
近くに内蔵助縁の史跡があっても変じゃないような気もします。
矢頭父子の借金は内蔵助が返済したそうですが
その時に内蔵助の使いの人がこの近辺に宿泊したというのが
後日誤って伝えられたというのも考えられる。

もしかしたら、現代には伝わっていないけれど
「假名手本忠臣藏」の大ヒットにあやかって作られた芝居の中に
上福島村に隠棲していたというエピソードがあったのかもしれないなぁ。

※「福島区の風景・街並み

出入橋

2013-01-25 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
交差点や高速道路出口の名称としてよく耳にする「出入橋」。





「wikipedia:出入橋出口」阪神高速道路11号池田線の出口
「wikipedia:出入橋駅」阪神電気鉄道の最初の開業 区間。

出入橋はこの地にかつて存在していた運河にかけられていた橋です。
運河は堂島川から蜆川(曽根崎川)を通り、さらに大阪駅まで通じていました。
名称は堂島川~駅構内までが「堂島掘割」、駅構内部分が「梅田入堀」。



大正13年「大阪市パノラマ地図」。
出入橋より東の蜆川はすでに埋め立てられ、市街地化しています。
川の西側の埋立が完了したのはこの地図が発行された大正13年。
堂島川・蜆川に交差しているカギカッコの片割れみたいな形状の運河が
堂島掘割・梅田入堀です。
大阪駅に出入りするための掘割にかけられた橋だから、出入橋という名になったんだろうな。

出入橋の北側に書かれているのが新出入橋でしょうか。
橋の上を通る線路は大阪市電でしょうか。
2号線の新出入り橋東交差点に欄干の一部が残っているようです。

『大阪の橋ものがたり』という本によりますと、
大阪駅~蜆川までの運河が作られたのは明治10年、翌年には堂島川まで延伸。
そのため、江戸時代の地図には出入橋は載っていません。
この運河が作られたことで、明治8年に敷設された鉄道の安治川支線(大阪~安治川間)が
廃止されたのだそうです。
さすが水都・大阪、鉄道よりも運河を活用した水運の方が便利だったらしく
さらに昭和5年に梅田北ヤード部分まで堀が拡張されました。
鉄道や道路の発達により、運河の埋立が進んだとの話はよく聞きますが
その逆のケースは珍しいのではないでしょうか。

梅田入堀は昭和40年代に埋め立てられ、今はありませんが
出入橋は道路の一部に姿を変えて残っています。



堂島掘割は埋め立てられ、上空に阪神高速が通っています。



高速道路にフタをされて陰気くさい雰囲気になってしまいましたが
古びた石畳がいい感じ。
今の橋が架橋されたのは、昭和10年。
当時は美しくモダンな橋だったのだろうなぁ。

橋のたもとにある有名な和菓子店「出入橋きんつば屋」の創業は1930年。
出店当時は掘割は現役、梅田入堀がさらに拡張した年でもあり
たくさんの船がこのお店の前を行きかっていたのでしょう。
ここのきんつばは最高に美味しいです。
私はアンコが苦手ですが、ここのきんつばは別。
ひとむかし前は福島や堂島界隈の会社のひとの手土産の定番は
ここのきんつばでしたが、今はどうなんでしょうか。



側面。
なんかパイプ状のものが取り付けられていたのでしょうか。



とても立派で美しい橋なのですが、全く目立ちません。
老朽化が進んでおり今後が心配。

ところでわたくし、長いことこの出入橋が北区・福島区の境界だと思っていました。
この界隈が北区であると知ったのは、結構最近。
洋食屋の「インペリアル」に行った時でした。
住所を調べてびっくりしました。
明治時代の古地図を見ると、「上福島」の一部になっているものがあります。
(福島区はかつては北区の一部でした)
実際の福島区と北区の境界は、梅田橋があったあたりです。

「出入橋きんつば屋」
住所:大阪市北区堂島3-4-10

※「北区の風景・街並み

浄祐寺

2013-01-23 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
梅田橋の近くに「浄祐寺」というお寺があります。



このあたり、周囲はぎっしりと建物が建てこんでいます。
お寺だけが取り残されたよう。
都会のお寺さんはビル風に建替えている所も多いのですが
こちらは昔ながらの古風なお寺と言う感じ、少し鄙びた風情もあります。
(大都会のお寺なのに)

文楽プログラム(2012年9月公演)添付の地図にもその名があります。



他の古地図をいろいろ見たところ、「浄福寺」と書かれていることもあります。
たぶん誤植でしょうね。
古地図っておおらかに出来ていて、地名や寺社名の誤記はけっこうあるみたい。
船場や島之内のような都心部ならある程度正確だと思いますが
曽根崎や福島みたいな郊外は発行前にちゃんと確認せずに、
以前の出版物を見てテキトーに書いてしまっていることもあるんじゃないだろうか。

門の隣に看板が出ていました。



「当寺境内
赤穂浪士 矢頭長助の墓 矢頭右衛七の墓
歌舞伎恋の緘〆 五大力の墓」

こんな所に赤穂浪士のお墓が!
赤穂浪士のお墓って東京の泉岳寺じゃないの?

「wikipedia:矢頭長助」(矢頭教兼の父親)
「wikipedia:矢頭教兼」(通称は右衛門七)
「大阪市HP:浄祐(じょうゆう)寺

父親である長助は赤穂城開城後、大阪に転居したが、討入り前に死去。
ここ浄祐寺に葬られた。
息子である右衛門七がその遺志をついで討入りに参加。
矢頭家は困窮していたため、討入りに参加するための交通費が無く、
里人に借金、そのお金は後日大石内蔵助が返済。
(長助と右衛門七は蜆売りをしていたそうですが、蜆川でシジミ採りしてたんですかね)
討入りの話を聞いた里人が後日、長助のお墓の隣に右衛門七のお墓を作った…のだそうです。
おそらくお骨の入った本物のお墓ではなく、記念碑的な感じじゃないでしょうか。

私は見ていませんが、昨年末NHKの番組で取り上げられています。

「NHK 歴史秘話ヒストリア:せつなき10代 熱き忠臣蔵~赤穂浪士 若者たちの決断~

「赤穂観光協会:矢頭右衛門七教兼

右衛門七はかなりの美少年だったそうです(享年18歳)。
親孝行や家族愛にまつわるお話が残されており
忠臣蔵のエピソードのひとつとして矢頭家の物語は有名みたい。

1955年に右衛門七を題材にした映画がつくられています。
タイトルは「元禄美少年記」、主演は中村嘉葎雄。

昭和39年には舟木一夫が「右衛門七討入り」なる曲をリリース。
舟木一夫はこの時期の大河ドラマで右衛門七を演じていました。
昭和57年年の「峠の群像」の時は野村義男でした。
これはうっすら覚えています。
当時は「たのきんトリオ」の一人で人気絶頂のアイドルでしたから
美少年役が回ってきたんだろうなぁ。
個人的にはヨッチャンのどこが美少年なんかよく分かりませんが…
なお中村勘三郎さん主演の「元禄繚乱」(平成11年)の時は今井翼くん。

そしてもう一つ、「五大力の墓」とは?

歌舞伎の「五大力恋緘」に登場する殺人事件の被害者のお墓があるのだそうです。

「コトバンク:五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)
「wikipedia:盟三五大切(かみかけて さんご たいせつ)

文楽では「国言詢音頭」「置土産今織上布」。
曽根崎新地で起こった大量殺人事件(実話)を題材にしたちょっと怖いお話のようです。
武士に惨殺された遊女菊野をはじめとする5人のお墓があるのです。

鶴屋南北の「盟三五大切」は「五大力恋緘」の書き換えで、江戸が舞台。
「東海道四谷怪談」の後日譚という設定だそうです。

「wikipedia:四谷怪談

「四谷怪談」は「忠臣蔵」の外伝です。
「東海道四谷怪談」「仮名手本忠臣蔵」の佐藤与茂七は矢頭右衛門七がモデル。
その人のお墓が同じく忠臣蔵の外伝として書かれた「盟三五大切」の登場人物と同じお寺にあるなんて。
物語の世界でも実際の世界でもつながっているんですね、ちょっと不思議な感じ。

「浄祐寺」
住所:大阪市北区堂島3丁目3-5

※「北区の風景・街並み

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※追記 2014.07

下記ページに浄祐寺のご住職さんのお話が掲載されています。

「#曽根崎心中:天満屋そして梅田橋の面影を探し求めて

『浄祐寺の和尚さんが教えてくれた堂島新地と蜆川の面影』というサブタイトルの章です。
堂島新地はその昔、わりとリーズナブルな値段で遊べる遊所だったそうです。

上砂町・下砂町

2013-01-21 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(9)

梅田橋北詰には昔「上砂町・下砂町」という町がありました。
地図によっては「上砂丁・下砂丁」になっている場合もあります。
ちょうど梅田橋を境に東側が上砂町、西側が下砂町。







私は今、福島区を離れて東京の江東区という所に住んでおります。
江東区にも砂町という地名があります。
偶然ではなく、大阪・東京とも同じ人物によって新田開発された場所。
新田開発の主導者の名前は砂村新左衛門、地名は彼の名前にちなんでつけられました。
江東区には今も砂村→砂町の名前は残っていますが、大阪には残っていません。
古地図を色々と見ると、明治時代前半まではこの地名が残っていたようです。

「wikpedia:砂村新左衛門

砂村新左衛門は越前国鯖江の出身と言われています。
出身国の新田開発に携わっていましたが、のちに大阪に進出し
上福島村の曾根崎川北岸を開発(1648年頃)。
砂村一族はこの上福島の地に愛着があったようで、
後年、神奈川県横須賀市の内川新田を開発した際に
福島天満宮を勧請したり(久里浜天神社)、
平作川にかかる橋に「梅田橋」と名付けたりしています。

「福島ズボラーヌ:梅田橋跡

私は時々、旧砂村新田にあるスーパーに自転車で出かけることがあります。
その際に「福島橋」という橋の跡を通ります。
かつて十間川(のちの砂町運河)と言う運河に架橋されていたのですが、
今は運河は無く、親水公園の一部になっています。
橋は外され、銘板のついた柱部分だけが公園に残されています。

「江東ズボラーヌ:福島橋(南砂)

「大阪の上福島村と関連があるのでは?」と考えているのですが
橋跡の周辺には説明板も無く、詳しいことは分かりません。
近くの図書館で溝手正儀さんの著書「砂村新左衛門」を借りて読んだのですが
「福島橋」についての説明はありませんでした。
もしかしたら、明治以降に運河として整備された時に作った橋なのかなぁ。

砂村新左衛門」(溝手さんのホームページ)

西善寺が北陸への布教活動のために持っていた船(不退丸)に砂村家がかかわっていたのでは?
という推測も書かれていました。
しかし、キタの大火で福島天満宮や西善寺の資料が失われてしまったため
砂村家や新田について調べることが難しいようです。
大阪の郷土史家の中で、砂村家について詳しく知る人もいないらしい。

残念ながら、現在のところ「福島橋」の由来は分からぬままです。
江東区に住んでいる間に図書館でこつこつ調べてみたいと思っています。

※2013.10 追記
福島区内を流れていた井路川「聖天川」に昔「福島橋」があったそうです。
聖天川は埋め立てられて今は存在しません(昭和初期頃?)。
古地図で見ると、旧ホテルプラザの近くだと思われます。
この福島橋と、江東区南砂の福島橋の関連は分かりません。



「大阪市街全図」大正5年(1916年)


※「福島区の風景・街並み

梅田橋跡

2013-01-20 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(8)

梅田橋は蜆川にかかっていた橋のひとつです。
古地図を見ると田蓑橋北詰の北にあったようです。



今の大阪中之島合同庁舎の前あたり。
この近辺に橋跡を示す石碑等はありませんが、
近松門左衛門の作品などの古典文学に梅田橋の名が登場します。

『曽根崎心中・天満屋の段』より
恋風の身に蜆川流れては、その虚貝うつヽなき、
色の闇路を照らせとて、夜毎に燈す燈火は、四季の蛍よ雨夜の星か、夏も花見る梅田橋


『曽根崎心中・天神森の段』より
梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星

『心中天網島・道行名残の橋づくし』
西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋 
今に話を聞渡る一首の歌の御威徳
かかる尊きあら神の氏子と生れし身をもちてそなたを殺し我も死ぬ


「wikipedia:曽根崎心中
「wikipedia:心中天網島

梅田橋はかつて梅田にあった墓地「梅田三昧」に行くために架橋されたそうで
蜆川の橋の中では一番古い橋。
墓地に至る橋ということで、昔の人はこの地名に
死のイメージを持っていたのかもしれません。
だから何度も心中物語の名場面に使われていたのかな…

「文化デジタルライブラリー:道行名残の橋づくし

古典文学の世界では有名な梅田橋ですが、今はその痕跡はありません。
石碑は作られなかったのか、それとも戦災で失われてしまったのか。
周囲をぐるぐる見回したところ、意外なところに梅田橋の名が。



梅田橋ビル。
蜆川があったころには無かったはずの現代的なビルディングです。
写真左手に見える白いビルはほたるまちのThe Tower Osaka。

『大阪の橋ものがたり』という本によると、かつて梅田はのどかな農村。
梅田橋近くの堤では「梅田の牛駆け」なる行事が毎年5月5日に行われていました。
大切な牛さんに感謝の意を表すための行事で、
牛さんたちを布や花で飾りつけ、堤の上で放して自由に走らせたのだそうです。
その際に農家の皆さんが粽をまくのですが、天然痘除けのおまじないに効くとのことで
みんな争って持ち帰ったとか。

5月5日は端午の節句。
今でもちまきを食べる習慣は残っていますが
梅田橋周辺で牛を放つのは無理だなぁ…。

「大阪中之島合同庁舎」
住所:大阪市福島区福島1-1-60

「梅田橋ビル」
住所:大阪市北区堂島3-2-1

※「福島区の風景・街並み

追記:
何かの本で、文楽・歌舞伎でおなじみの「菅原伝授手習鑑」の登場人物の名は
蜆川(曽根崎川)の橋にちなんでいるのだ、と読んだ記憶がうっすらとあります。
梅王丸→梅田橋、桜丸→桜橋、松王丸→たぶん緑橋。
『心中天網島・道行名残の橋づくし』の一節、
西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋
」から「あと追ひ松の緑橋」。

多くの書籍では、道真公の詠んだ歌、
「梅は飛び桜は散るる 世の中に何とて松のつれなかるらん」
がモトネタとされています。

追記2:
『心中天網島』、NHKで放映されます。

「NHKオンライン:古典芸能への招待
日時:2013年6月30日(日)21:00~23:00
詳細:NHKネットクラブ:古典芸能への招待 文楽「心中天網島」

浄正橋跡

2013-01-18 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(7)

上天神南交差点近く、「逆櫓の松」のお向かいに立つくすんだ色の石碑。
「浄正橋跡」と刻まれています。
これも蜆川(曽根崎川)にかかっていた橋のひとつ。
大阪市HPによると、「大正15年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てた」とあります。
逆櫓乃松の石碑も同時期に同じ団体の手によって建てられました。

「大阪市HP:福島区名所・旧跡 浄正橋跡碑(じょうしょうばしあとのひ)

堂島小橋や汐津橋の碑は作らなかったのかしら?
もしかしたら、戦災の時に失われたのかもしれないなぁ。
「逆櫓乃松址」の石碑も戦災瓦礫に埋もれてしまい、
昭和33年に掘り起こされたそうなので、今もどこかに埋もれているのかも…



「橋」の字の上半分が真っ黒になっているのは、
かつてはちょうどこの辺りまで地面に埋まっていたから。
道路工事の際に再び掘り返し、今の状態に設置しなおしたのだそうです。

売れてもうらない.com 今なにわ筋、昔浄正橋筋。昔から賑やかな商店街です

↑こちらのHPの写真を見ると、以前はかなり深くまで埋まっていたみたい。

野田+福島:こっそり教える商店街 商店街歩き入門

上記の「野田+福島」の記事によると、浄正橋筋と浦江聖天通りの界隈は
ちょっとした歓楽街で、昔は「北の心斎橋」と呼ばれていたとか。
今は残念ながら、面影ありませんねぇ。

この道(なにわ筋)がかつて浄正橋筋と呼ばれていたのなら、
堂島小橋や汐津橋のある道も堂島小橋筋・汐津橋筋と言われていたのだろうか?

交差点の「浄正橋」はもう少し北側にあるのですが
本当の橋がかかっていたのは石碑の近く「上天神南交差点」付近。
大阪の自宅に20年くらい前に購入した道路地図があるのですが
その本では上天神南交差点の名前は「福島公設市場前」と書かれていました。
福島公設市場=ピコ福島が閉店したから、名称が変わったんでしょうかね。

ピコ福島の思い出はあまりないなぁ…
日曜日がパンの特価日だったのは覚えている。
関電病院のお隣なので、
ガーゼの寝巻など入院グッズが充実していたような記憶があります。
跡地は今なおシャッターが下りたままです。
新しい店舗は入居しないのかしら??

※追記

なんと福島公設市場は日本初の公設市場のひとつだったそうです。
開設されたのは大正7年(1918年)。
とても長い歴史を持つ市場だったのです。残念ながら無くなったけど…



大正13年「大阪市パノラマ地図」。

※「福島区の風景・街並み

逆櫓乃松址

2013-01-17 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(6)

以前の記事に2回も登場したことのある「逆櫓の松」(2012.10.142013.01.11)。
「上天神南」交差点近く、旧蜆川の北岸にあります。

「大阪市:逆櫓(さかろ)の松跡碑

今現在の松はこういう感じです。
本物の「逆櫓の松」は明治初期に枯れてしまったそうです。



マンションの花壇にひょろひょろ立っている松の木。
勇壮な「ひらかな盛衰記」とは似ても似つかない。
文楽の舞台にあった松の方が太いんじゃ…。
お隣にある石碑の方が立派です。



大正時代に作られた石碑。
説明板もあります。



説明の多くは源義経vs梶原景時の逆櫓論争の話に割かれています。
源氏の軍は屋島の戦いの頃、この辺に滞在していたのでしょう。

「wikipedia:逆櫓の松
「wikipedia:屋島の戦い

しかし、『吾妻鏡』『玉葉』の記述から、
このころ景時は範頼軍と行動を共にしていたという見解が有力であり、
『平家物語』のこの逸話は虚構の可能性が高い。


虚構なんですか…。まぁええけど。

説明板によりますと、「梶原景時に従ったのはわずか5艘」。
ちなみに「ひらかな盛衰記」の「逆櫓の段」に出てくる
松右衛門主催の逆櫓講習に参加していた船頭は3人でした。
松右衛門は捕まってしもたし、
講習の続きは権四郎じいさんが講師を務めたのだろうか。

劇中のセリフに
ノウ松右殿、船で妻子を養ひながら、恥づかしいがつひに逆櫓といふことは
ヲヽ知らぬ筈/\。なに事もおれ次第教へてやる
と言うやりとりがあり、逆櫓は福島の松右衛門家に伝わる秘法で
他の船頭さんは知らないという設定です。

説明板の残り数行には江戸時代の観光ガイドブックとして有名な
「摂津名所図会」についての記載があります。
たいそう立派な老松で樹齢千年で蛇のような形をしていたとか。
近くの玉江橋にも「蛸の松」という有名な松があります。
松、ていうのが観光スポットとして絶妙です。
桜は花の季節以外は誰も関心を持ちませんが、
常緑樹で枝ぶりを鑑賞する松なら、年間を通してお客さんを呼ぶことができます。

フリーペーパー「野田+福島」に「逆櫓の松」の図が掲載されていました。

「野田+福島:野田福島名所図会」(pdf)

この絵を見ると、確かにすごく立派な松です。
勇猛な武者が登ってもおかしくない。
蜆川(今は道だけど)ぎりぎりに立っていたわけではなく
個人のお屋敷の敷地内から、枝が伸びている感じですね。
こんな大木なら、確かに淀川(堂島川)を往来する船の目印になったことでしょう。



「野田+福島」の他の号にも、逆櫓の松が紹介されています。
この松の木は福島天満宮の南西にあった杉本家の松なのだそうです。

「野田+福島:野田福島文学散歩」(pdf)

1739年上演の人形浄瑠璃『ひらがな盛衰記』に初めて逆櫓の松という名が登場する。
この浄瑠璃がヒットし、これ以降この大きな松を『逆櫓の松』と呼ぶようになったそうです


やっぱり、逆櫓の松は義経ゆかりじゃなく、松右衛門さんの松だったのだな。
「松右衛門さん家の松ってどんなん?」
と思われた方は、是非、大阪の文楽劇場へ。
今月25日まで公演しています。16日以降は第一部(午前の部)で上演しています。

「国立文楽劇場:初春文楽公演」2013年1月3日(木)~2013年1月25日(金)



文久3年(1863年)「改正増補大阪全図」。
「浄正バシ」の「浄」の上に黒いモヤモヤがありますが
これは松の木の絵ではないかと思うのです。
残念ながら、文字がつぶれてて正確な内容は分からないのですが。
画面右下にも松の木の絵がありますが(ピンクの○部分)、これは「蛸の松」。

※「福島区の風景・街並み

本遇寺

2013-01-16 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(5)

旧汐津橋北詰(福島側)にあるのが本遇寺。
蜆川や逆櫓の松について調べていた時に、こちらのHPにたどり着きました。
私はよそ者で福島区の歴史には全然詳しくなく、
とても面白く拝読しました。
(今は東京在住だから福島図書館に調べに行くこともできないし…)

本遇寺はここにあります

このあたりで聞こえる除夜の鐘はこちらのお寺さんのものだったのか。
いつもどこのお寺かなぁ、と思ってました。
(ふだんは鐘の音がしていないように思う)
先日見た「ひらかな盛衰記」、「逆櫓の段」の最後に鐘の音が響くのですが
もしかしたら、こちらのお寺さんの鐘という設定だったりして。

お寺のHP記事によると、かつてこの界隈には
「東の芭蕉、西の鬼貫」と言われた有名な俳人、上島鬼貫が住んでいたそうです。
ちなみに今、私が住んでいる江東区には松尾芭蕉が住んでいました。
立派な記念館が建っていますが、福島区内に上島鬼貫の記念館どころか
句碑も見た事無いなぁ。
知名度の差ですかねぇ…

「wikipedia:上島鬼貫

福島区の歴史に詳しい「なにわふくしま資料館」のページに上島鬼貫の句が掲載されています。

「暗がりの 松の木さへも 秋の風」
「吹く風や 稲の香にほふ 具足櫃」
「野田村に 蜆あへけり 藤の頃」

野田村、藤、っていかにも野田らしい句ですね。

尚、こちらのお寺に伝わる「絹本著色方便法身阿弥陀如来画像附本遇寺文書」は
大阪市指定文化財です。

「大阪市:絹本著色方便法身阿弥陀如来画像 附 本遇寺文書

※「福島区の風景・街並み

汐津橋跡

2013-01-15 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(4)

蜆川にかかる一番下流の橋が「堂島小橋」。
ではその上流側にかかっていたのはというと、「汐津橋」(塩津橋とも)。
地図を見ながら、大体このあたり…と検討を付けていたのですが
その周辺を見回してもそれらしき石碑などは見当たらない。
堂島小橋の石碑も無いし、ちょっとさびしい。



たぶん、関電病院の西側の道にかかっていたのだと思う。



大正13年「大阪市パノラマ地図」。

1863年の古地図複製を見ると汐津橋南詰西側には
「西本願寺舟入」と書かれています。
インターネットで検索したところ、
対岸(福島側)にある西善寺についての文章が見つかりました。



西善寺は江戸時代初期に大きな船を持っていて、
その船を用いて北陸方面に布教活動をしていたのだそうです。
蜆川は川幅が細いので大きな船は通れませんから、
堂島川側に着岸させていたのでしょう。
(舟入とは川舟の発着場のことらしいです)
船に乗っていた人は堂島を縦断して(狭いですが)
汐津橋を使って、北岸にあるお寺に出入りしていたのかな。

※「福島区の風景・街並み

西善寺

2013-01-14 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(3)

堂浜ビルの斜め向かい、川の北岸(福島側)に西善寺という寺院があります。
以前の記事「中の天神跡」で書いた林伊織(林重次郎・早瀬伊織)のお墓があるところです。



「大阪福島ライオンズクラブ:西善寺

正式名称は「松樹山 西善寺」というのかな?
境内には古いお墓があり、その傍らに「林伊織之舊跡」と書かれた石碑がありました。
写真後ろ側に見えるのが林伊織の墓の台座部分です。
(私が見たところ、お寺の入り口付近にはそういう表示は無かったように思う。
 だから近所の人も知らないかもしれない…)



私は歌舞伎など古典芸能にはうといので
「天下茶屋仇討」「敵討天下茶屋聚」等の戯曲を全然知らなかったのですが
神社に祭られているくらいだから、かつて林伊織さんは誰もが知る有名人であり
かなり人気のある演目だったのではないでしょうか。
戦前には映画化されているし、今でも歌舞伎で上演されています。
上演前に歌舞伎役者さんがお参りに来たりするのかな?

福島天満宮に勘三郎さんや勘九郎さんが来られたのはテレビで見ましたけど。
あれは平成中村座の「夏祭浪花鑑」の時に福島天満宮の地車講社中が公演に協力したことが
きっかけでご縁が出来たと言っていたような。
(ニューヨーク公演にも参加されたんでしたっけ)
中の天神は上の天神こと福島天満宮に合祀されたので
林神社(祭神 林伊織命)も今は福島天満宮の末社になっています。
たぶん、勘三郎さん達は神社からその説明を受けていると思う。
ついでにお墓参りはしなかったのかしら。

この後もあちこち蜆川跡地周辺を散歩しましたが、
たくさんの古典芸能の舞台の地があります。
堂島と言えば、江戸時代の日本経済の中心地であり、
遊興の地として有名な堂島新地・曾根崎新地がありました。
福島区域は中之島や船場からもすぐ近く。
その昔は今の中央卸売市場付近にも芝居小屋があり
他にも小規模な遊所があったらしいので
近郊の漁村・農村と言ってもそこそこ賑やかだったのではないでしょうか。

昔の人は現代で言う映画やドラマのロケ地めぐりのように
福島のお寺や神社に参詣していたのかもしれません。



近くに古い煉瓦塀がありました。

蜆川が埋め立てられたのはキタの大火(明治42年)で発生した大量の瓦礫処理のためです。
北区空心町で火災が発生、火は西に燃え広がり、
福島区にも大きな被害をもたらしました。
手元に「古地図で大阪を歩く」(大阪人vol.66)という雑誌がありますが
それに掲載されている「大阪大火比較一覧図」を見ると、
堂島はほとんどの部分が燃えてしまったようです。
福島駅の南側の被害もひどく、火は紡績工場(今の下福島公園)の防火壁でなんとかとどまったようですが
中の天神は焼失。
逆櫓の松は明治の初めに枯れてしまい、根元だけが残っていましたが
それもこの大火で焼けてしまいました。

この火災をきっかけに煉瓦塀の防火能力があらためて認識され
市内各地に普及した、という文章を読んだことがあります。
福島区内のあちらこちらにこういう煉瓦塀が残されていますが
おそらく被害甚大だったキタの大火の教訓から作られたものでは
ないでしょうか。

西善寺
住所:大阪市福島区福島3-4-4

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※追記 2014 
昨年、お寺のホームページが出来たようです→「西善寺
お寺の歴史や『天下茶屋の仇討ち』についての詳しいお話が書かれています。
砂町(上砂町・下砂町)の記事で触れた本願寺御座船「不退丸」についても触れられています。
残念ながら、砂村新左衛門との関連については書かれていません。

※「福島区の風景・街並み