福島ズボラーヌ

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大阪市福島区(並びにその周辺)をうろうろ徘徊。

梅田橋跡

2013-01-20 | ・福島:風景・建築・史跡
蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(8)

梅田橋は蜆川にかかっていた橋のひとつです。
古地図を見ると田蓑橋北詰の北にあったようです。



今の大阪中之島合同庁舎の前あたり。
この近辺に橋跡を示す石碑等はありませんが、
近松門左衛門の作品などの古典文学に梅田橋の名が登場します。

『曽根崎心中・天満屋の段』より
恋風の身に蜆川流れては、その虚貝うつヽなき、
色の闇路を照らせとて、夜毎に燈す燈火は、四季の蛍よ雨夜の星か、夏も花見る梅田橋


『曽根崎心中・天神森の段』より
梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りていつまでも、われとそなたは女夫星

『心中天網島・道行名残の橋づくし』
西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋 
今に話を聞渡る一首の歌の御威徳
かかる尊きあら神の氏子と生れし身をもちてそなたを殺し我も死ぬ


「wikipedia:曽根崎心中
「wikipedia:心中天網島

梅田橋はかつて梅田にあった墓地「梅田三昧」に行くために架橋されたそうで
蜆川の橋の中では一番古い橋。
墓地に至る橋ということで、昔の人はこの地名に
死のイメージを持っていたのかもしれません。
だから何度も心中物語の名場面に使われていたのかな…

「文化デジタルライブラリー:道行名残の橋づくし

古典文学の世界では有名な梅田橋ですが、今はその痕跡はありません。
石碑は作られなかったのか、それとも戦災で失われてしまったのか。
周囲をぐるぐる見回したところ、意外なところに梅田橋の名が。



梅田橋ビル。
蜆川があったころには無かったはずの現代的なビルディングです。
写真左手に見える白いビルはほたるまちのThe Tower Osaka。

『大阪の橋ものがたり』という本によると、かつて梅田はのどかな農村。
梅田橋近くの堤では「梅田の牛駆け」なる行事が毎年5月5日に行われていました。
大切な牛さんに感謝の意を表すための行事で、
牛さんたちを布や花で飾りつけ、堤の上で放して自由に走らせたのだそうです。
その際に農家の皆さんが粽をまくのですが、天然痘除けのおまじないに効くとのことで
みんな争って持ち帰ったとか。

5月5日は端午の節句。
今でもちまきを食べる習慣は残っていますが
梅田橋周辺で牛を放つのは無理だなぁ…。

「大阪中之島合同庁舎」
住所:大阪市福島区福島1-1-60

「梅田橋ビル」
住所:大阪市北区堂島3-2-1

※「福島区の風景・街並み

追記:
何かの本で、文楽・歌舞伎でおなじみの「菅原伝授手習鑑」の登場人物の名は
蜆川(曽根崎川)の橋にちなんでいるのだ、と読んだ記憶がうっすらとあります。
梅王丸→梅田橋、桜丸→桜橋、松王丸→たぶん緑橋。
『心中天網島・道行名残の橋づくし』の一節、
西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋
」から「あと追ひ松の緑橋」。

多くの書籍では、道真公の詠んだ歌、
「梅は飛び桜は散るる 世の中に何とて松のつれなかるらん」
がモトネタとされています。

追記2:
『心中天網島』、NHKで放映されます。

「NHKオンライン:古典芸能への招待
日時:2013年6月30日(日)21:00~23:00
詳細:NHKネットクラブ:古典芸能への招待 文楽「心中天網島」