蜆川(曽根崎川)の跡を巡る(3)
堂浜ビルの斜め向かい、川の北岸(福島側)に西善寺という寺院があります。
以前の記事「中の天神跡」で書いた林伊織(林重次郎・早瀬伊織)のお墓があるところです。
「大阪福島ライオンズクラブ:西善寺」
正式名称は「松樹山 西善寺」というのかな?
境内には古いお墓があり、その傍らに「林伊織之舊跡」と書かれた石碑がありました。
写真後ろ側に見えるのが林伊織の墓の台座部分です。
(私が見たところ、お寺の入り口付近にはそういう表示は無かったように思う。
だから近所の人も知らないかもしれない…)
私は歌舞伎など古典芸能にはうといので
「天下茶屋仇討」「敵討天下茶屋聚」等の戯曲を全然知らなかったのですが
神社に祭られているくらいだから、かつて林伊織さんは誰もが知る有名人であり
かなり人気のある演目だったのではないでしょうか。
戦前には映画化されているし、今でも歌舞伎で上演されています。
上演前に歌舞伎役者さんがお参りに来たりするのかな?
福島天満宮に勘三郎さんや勘九郎さんが来られたのはテレビで見ましたけど。
あれは平成中村座の「夏祭浪花鑑」の時に福島天満宮の地車講社中が公演に協力したことが
きっかけでご縁が出来たと言っていたような。
(ニューヨーク公演にも参加されたんでしたっけ)
中の天神は上の天神こと福島天満宮に合祀されたので
林神社(祭神 林伊織命)も今は福島天満宮の末社になっています。
たぶん、勘三郎さん達は神社からその説明を受けていると思う。
ついでにお墓参りはしなかったのかしら。
この後もあちこち蜆川跡地周辺を散歩しましたが、
たくさんの古典芸能の舞台の地があります。
堂島と言えば、江戸時代の日本経済の中心地であり、
遊興の地として有名な堂島新地・曾根崎新地がありました。
福島区域は中之島や船場からもすぐ近く。
その昔は今の中央卸売市場付近にも芝居小屋があり
他にも小規模な遊所があったらしいので
近郊の漁村・農村と言ってもそこそこ賑やかだったのではないでしょうか。
昔の人は現代で言う映画やドラマのロケ地めぐりのように
福島のお寺や神社に参詣していたのかもしれません。
近くに古い煉瓦塀がありました。
蜆川が埋め立てられたのはキタの大火(明治42年)で発生した大量の瓦礫処理のためです。
北区空心町で火災が発生、火は西に燃え広がり、
福島区にも大きな被害をもたらしました。
手元に「古地図で大阪を歩く」(大阪人vol.66)という雑誌がありますが
それに掲載されている「大阪大火比較一覧図」を見ると、
堂島はほとんどの部分が燃えてしまったようです。
福島駅の南側の被害もひどく、火は紡績工場(今の下福島公園)の防火壁でなんとかとどまったようですが
中の天神は焼失。
逆櫓の松は明治の初めに枯れてしまい、根元だけが残っていましたが
それもこの大火で焼けてしまいました。
この火災をきっかけに煉瓦塀の防火能力があらためて認識され
市内各地に普及した、という文章を読んだことがあります。
福島区内のあちらこちらにこういう煉瓦塀が残されていますが
おそらく被害甚大だったキタの大火の教訓から作られたものでは
ないでしょうか。
「西善寺」
住所:大阪市福島区福島3-4-4
-------------------------------------
※追記 2014
昨年、お寺のホームページが出来たようです→「西善寺」
お寺の歴史や『天下茶屋の仇討ち』についての詳しいお話が書かれています。
砂町(上砂町・下砂町)の記事で触れた本願寺御座船「不退丸」についても触れられています。
残念ながら、砂村新左衛門との関連については書かれていません。
※「福島区の風景・街並み」
堂浜ビルの斜め向かい、川の北岸(福島側)に西善寺という寺院があります。
以前の記事「中の天神跡」で書いた林伊織(林重次郎・早瀬伊織)のお墓があるところです。
「大阪福島ライオンズクラブ:西善寺」
正式名称は「松樹山 西善寺」というのかな?
境内には古いお墓があり、その傍らに「林伊織之舊跡」と書かれた石碑がありました。
写真後ろ側に見えるのが林伊織の墓の台座部分です。
(私が見たところ、お寺の入り口付近にはそういう表示は無かったように思う。
だから近所の人も知らないかもしれない…)
私は歌舞伎など古典芸能にはうといので
「天下茶屋仇討」「敵討天下茶屋聚」等の戯曲を全然知らなかったのですが
神社に祭られているくらいだから、かつて林伊織さんは誰もが知る有名人であり
かなり人気のある演目だったのではないでしょうか。
戦前には映画化されているし、今でも歌舞伎で上演されています。
上演前に歌舞伎役者さんがお参りに来たりするのかな?
福島天満宮に勘三郎さんや勘九郎さんが来られたのはテレビで見ましたけど。
あれは平成中村座の「夏祭浪花鑑」の時に福島天満宮の地車講社中が公演に協力したことが
きっかけでご縁が出来たと言っていたような。
(ニューヨーク公演にも参加されたんでしたっけ)
中の天神は上の天神こと福島天満宮に合祀されたので
林神社(祭神 林伊織命)も今は福島天満宮の末社になっています。
たぶん、勘三郎さん達は神社からその説明を受けていると思う。
ついでにお墓参りはしなかったのかしら。
この後もあちこち蜆川跡地周辺を散歩しましたが、
たくさんの古典芸能の舞台の地があります。
堂島と言えば、江戸時代の日本経済の中心地であり、
遊興の地として有名な堂島新地・曾根崎新地がありました。
福島区域は中之島や船場からもすぐ近く。
その昔は今の中央卸売市場付近にも芝居小屋があり
他にも小規模な遊所があったらしいので
近郊の漁村・農村と言ってもそこそこ賑やかだったのではないでしょうか。
昔の人は現代で言う映画やドラマのロケ地めぐりのように
福島のお寺や神社に参詣していたのかもしれません。
近くに古い煉瓦塀がありました。
蜆川が埋め立てられたのはキタの大火(明治42年)で発生した大量の瓦礫処理のためです。
北区空心町で火災が発生、火は西に燃え広がり、
福島区にも大きな被害をもたらしました。
手元に「古地図で大阪を歩く」(大阪人vol.66)という雑誌がありますが
それに掲載されている「大阪大火比較一覧図」を見ると、
堂島はほとんどの部分が燃えてしまったようです。
福島駅の南側の被害もひどく、火は紡績工場(今の下福島公園)の防火壁でなんとかとどまったようですが
中の天神は焼失。
逆櫓の松は明治の初めに枯れてしまい、根元だけが残っていましたが
それもこの大火で焼けてしまいました。
この火災をきっかけに煉瓦塀の防火能力があらためて認識され
市内各地に普及した、という文章を読んだことがあります。
福島区内のあちらこちらにこういう煉瓦塀が残されていますが
おそらく被害甚大だったキタの大火の教訓から作られたものでは
ないでしょうか。
「西善寺」
住所:大阪市福島区福島3-4-4
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※追記 2014
昨年、お寺のホームページが出来たようです→「西善寺」
お寺の歴史や『天下茶屋の仇討ち』についての詳しいお話が書かれています。
砂町(上砂町・下砂町)の記事で触れた本願寺御座船「不退丸」についても触れられています。
残念ながら、砂村新左衛門との関連については書かれていません。
※「福島区の風景・街並み」