福島ズボラーヌ

https://blog.goo.ne.jp/nekozora-f

大阪市福島区(並びにその周辺)をうろうろ徘徊。

ふじめぐり(2017年)リッツカールトン大阪

2017-05-23 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
こちらは福島区ではないのですが…
西梅田のリッツカールトン大阪にある藤の鉢植えが素晴らしいのです。



場所はホテル敷地の一番西端。
角の所に白いクラシカルな鉢に植えられて置かれています。







花の見頃は野田の藤とほぼ同じくらいです。

「リッツカールトン大阪」
住所:大阪市北区梅田2-5-25
撮影:‎2017‎年‎4‎月‎23‎日

【過去記事のまとめ】
福島ズボラーヌ:福島区の花「のだふじ」

【各団体リンク】
大阪市福島区:のだふじコーナー (福島区役所)
 ・2017のだふじ巡り 福島区見所マップ(PDF)
のだふじの会 – 大阪市福島区「野田藤(のだふじ)」発祥の地
 ・のだふじ開花情報

浄祐寺(2)

2013-09-07 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡


二号線から見える浄祐寺の壁。
壁の上部に煉瓦が見えますが、それ以外は瓦ですかね。

このお寺は私が行く時はいつもひっそりとしていますが
インターネットで見ると、わりと写真を撮っている人が多い。
文楽や歌舞伎で有名な演目(忠臣蔵、五大力恋緘など)の
登場人物の墓所を訪ねて来られたのでしょう。

矢頭長七の墓所は
大阪の観光地として、昔はそこそこ有名でした。
かつての大阪は全国的にも有名な芸能の街、芝居の街だったので
多くの芝居ファンがお墓参りに訪れたのだと思います。

古地図ファンにはおなじみの本渡章さんの著書、
「続大阪古地図むかし案内(明治~昭和初期編)」にもその名前は登場します。
昭和初期の近代古地図「グレート大阪市全図」に『珠玉の名蹟』のひとつとして
上げられているのです。
この地図が発行されたのは、昭和三年。
大正末期に人口・面積ともに日本最大の都市となった大阪市は
昭和二年に工場数・職工数ともに全国一となり、
まさに「グレート大阪」の名にふさわしい巨大都市に発展しました。

当時、福島区はまだなく、此花区の一部でした。
矢頭長七のお墓がある浄祐寺の住所は現在は北区堂島ですが
此花区の名所として紹介されています。

※「福島区の風景・街並み

新出入橋

2013-08-30 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
きんつばで有名な「出入橋」の近くにあったのが「新出入橋」。
その古い橋柱が横断歩道の脇に残されています。



出入橋、新出入橋ともにかつて堂島川~大阪駅にあった運河に架橋されていた橋です。
運河の名前はは駅構内部分は梅田入堀、駅~堂島川の部分は堂島掘割。
名前の通り、出入橋の方が先に出来たのでしょう。
運河は昭和40年代に埋め立てられましたが、
出入橋は今もその美しい姿を残しています。
あまり大事にされていないのがよく分かる状態になっているのが
非常に残念ですが…

今の二号線にはかつて大阪市電の福島曾根崎線が走っていました。
開業は明治45年(1912年)ですから、新出入橋が造られたのはその頃。
梅田入堀の開削は明治10年(大阪駅~蜆川。堂島川まで延伸されたのはその翌年)、
昭和5年に現在解体工事中である貨物駅のところまで拡張されました。

新出入橋の近くの公園には、以前、池のような小川のような水場がありましたが
かつての掘割をイメージしたものだったのかな?
今は諸事情により、水ははられていませんが。
この公園も高速道路の高架下で何となく陰気な雰囲気なのが残念。

「wikipedia:大阪市電福島曽根崎線

区間は梅田新道~福島西通。
福島西通では堂島大橋線、福島西野田線との乗り換えができました。
廃止されたのは昭和44年(1969年)。

梅田新道と言えば現在放映中のNHKドラマ
『夫婦善哉』の柳吉の生家(維康商店)。
蝶子が芸妓をしていた曽根崎新地はそのすぐ近くです。
森山未來さんの柳吉は大店の若旦那らしい
カラッとしたところや品の良さが無いように思い、ちょっと苦手。
でもいかにも駄目男という堕落ぶりと色気はすごいなぁと思う。



「大阪市パノラマ地図」1923年

地図の左端に「西成郡役所」があります。
当時、この辺りは大阪市ではなく西成郡上福島村。
この地図が作成された翌年に西成郡は消滅し、大阪市に併合されました。

※「福島区の風景・街並み

中央電気倶楽部(2)新館

2013-04-19 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
素晴らしい近代建築である本館のお隣に白い建物があります。





表札を見ると、こちらにも「中央電気倶楽部」の文字。
倶楽部のHPを拝見したところ、昭和40年に竣工したものだそうです。



本館に比べるとインパクトが若干弱いのですが
タイル貼りの瀟洒な建物です。





学生時代の就職活動以来、ご縁のなかった中央電気倶楽部でしたが
その後、転職した先の企業でしばしば名前を聞くことになりました。
電機に関する会社だったので、会合などで上司がよく訪れていたのです。

ある日、出先の上司から
「忘れ物をしたので、中央電気倶楽部に届けてくれ。
 入り口で社名と要件を言ってくれたら、中に入れるから。」
との電話が入りました。
ラッキー!
憧れの中央電気倶楽部に入れる!

喜びいさんで、倶楽部に出かけたところ、
残念ながら上司は玄関を出たところで待っていました…。
「ほな、ご苦労さーん」
と忘れ物を手渡したところでお別れ。
せめて玄関ホールに入りたかったなぁ。

後日、入り口受付の女性に見学したいとお願いしたところ
やはり、一般人の入場は不可能とのことでした。
単に会員企業に勤務しているだけではダメなのです。
「上司の方に紹介していただくという方法もありますよ」
と教えてもらったのですが、
そんな個人的なことを上司に頼むのもなぁ…

そうこうしている間に私は大阪から離れることになりました。
忘れ物を届けに行った時に
「実はこの内部を見てたいので、ちょっといいですか?」
と上司にお願いして、見学させてもろたらよかったなぁ。

※「北区の風景・街並み

中央電気倶楽部(1)本館

2013-04-18 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
堂島のオフィス街にある近代建築。





いつ見ても格好いい表札。しびれる…(電気だけに)

中央電気倶楽部

wikipedia:中央電気倶楽部

大阪市北区:えぇとこガイド 中央電気倶楽部

本館の竣工は昭和5年。
HPの「倶楽部小史」のページに設立の由来として
創立は大正3年11月6日です。
当倶楽部は、明治45年東京中心の日本電気協会(東京)に反発した関西支部が、
大正2年分離独立し、日本の中央であるとして、大阪に「中央電気協会」を設立した。

とあります。
ああ、由来までもが格好いいではないですか。



内部には会議室や食堂のほか、ビリヤード室もあります。
大阪人の反骨精神と都会的なサロン文化の融合の結果生まれた
素晴らしい建物。





大阪市のHPでは、大阪倶楽部、綿業会館と並ぶ
大阪を代表する倶楽部建築のひとつと紹介されています。
綿業会館には残念ながらまだ行ったことはないのですが
大阪倶楽部には一度、イベントで中に入ったことがあります。
こちらも素晴らしい建物でした。



大阪と言えば、猥雑で庶民的なイメージですが
こうした豪華な倶楽部建築などに見られるような
都会的で洗練された文化もあるのだということを
世間の皆さんに是非知っていただきたいと思う。





学生時代、就職活動でここに訪れたのが、このビルとの最初の出会いでした。
訪問先企業の人事の方(東京から来阪)が、何度も
「本当に素晴らしい建物ですねぇ」と感嘆されていたことをよく覚えています。
残念ながら、その企業とはご縁がありませんでしたが…。

尚、こちらは会員制倶楽部ですので、部外者の立ち入りはできません。

中央電気倶楽部
住所:大阪市北区堂島浜2-1-25
竣工:昭和5年
構造:鉄骨鉄筋コンクリート造の地下一階地上四階建
設計:葛野建築事務所(葛野壮一郎)
施工:大林組

※「北区の風景・街並み

堂島三丁目(1)

2013-04-14 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
淡路島地震から一日経ちました。
「報道ステーションSUNDAY」のトップニュースは
「浅田真央、引退を示唆?」でした。
てっきり、地震情報の続報やと思ってチャンネル合わせたのに。
東京の放送局にとっては、近畿地方の災害なんてそんな程度なんやなぁ…。



昔で言う所の、梅田橋のあたり。





その昔、梅田橋の近くに「編笠茶屋」と呼ばれる遊所があったそうです。
正確には浄祐寺の南側だったそうですが。

「wikipedia:編笠茶屋

ウィキペディアによると、「遊郭に入る際に顔を隠すための笠を貸し出す茶屋」とあります。
顔を隠さんならんほど恥ずかしいんやったら、行かんといたらええのに…
それはさておき、堂島にあった編笠茶屋の編笠とは、
お客さんが顔を隠すためのものではなく、お客さんの忘れ物。
「いつか取りに来るかも」と店頭に飾っておいたものの
結局誰も引き取りに来ず、お店の看板みたいになっていたようです。

近くには日本中の蔵屋敷があるし、曽根崎川の北岸は農村だし
お得意さんは地方から上阪したお侍さんなのか
それとも近隣の農家のおじさん達だったのか。

こちらの遊所の名物はきれいなお姉さんでも悲恋物語でもなく、雀鮨。

「語源辞典:雀寿司

雀寿司というと、鯛の身が敷き詰められた押し寿司というイメージだったのですが
それとは違い、小鯛をまるごと用いたものだそうです。
(昔は小鯛ではなく、他の魚だったみたいですが)

小さな魚のお腹の中にご飯を詰め込んだもので
ぷっくりと丸い形状が雀に似ていたから、雀寿司と呼ばれました。
三善貞司さんの著書には、
「福島あたりの古老は臨月の妊婦さんの様子を『雀鮨のようだ』と表現する」
とありました。
1980年代に出版された本で、取材したのはさらに前のことでしょうから
いつ頃の「古老」かは不明ですが、
明治生まれの人の話ではないでしょうか。

今の梅田橋には雀鮨のお店は見当たりませんが、
ここを発祥の地とする有名なお寿司屋さんがあります。

総本家 小鯛雀鮨 鮨萬 -江戸時代から、大阪すしの味を伝える すし萬-

すし萬のHPによると、1670年頃には雀鮨は福島の名物として知られていたそうです。

編笠茶屋の遊所、雀鮨のお店とも、今はこのあたりにはありません。
いつのタイミングで無くなったのか、よく分かりません。
遊郭については、明治時代に各地で整理されたので
そのタイミングかなと思います。
明治時代のキタの大火(天満焼け)でこの辺りは大きな被害を受けているので
この火事の前後で町の景色はがらっと変わったのではないかと思います。

さて、梅田橋と言えば、近松門左衛門。
今年四月の大阪公演の演目はこの梅田橋が登場する「心中天網島」。
北新地を舞台とする心中物語です。

国立文楽劇場4月文楽公演

西に見て朝夕渡るこの橋の天神橋はその昔菅丞相と申せし時
筑紫へ流され給ひしに君を慕ひて大宰府へたった一飛び梅田橋あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き悲しみて後にこがるる桜橋 
今に話を聞渡る一首の歌の御威徳
かかる尊きあら神の氏子と生れし身をもちてそなたを殺し我も死ぬ


残念ながらゴールデンウィークにはもう公演が終わっているので
ちょっとフライングして帰省し、なんとか見に来たいなと思っています。
もちろん、幕間のお弁当は「すし萬」のおすしで。


※「北区の風景・街並み


文楽 「心中天網島」 河庄 1

堂島一丁目(1)

2013-02-18 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
こんな繁華街の真ん中でこのような建物を見ようとは…



純和風の建物。
ショウウインドーがあるので何らかの商店・飲食店だったと思われます。
撮影したのが真冬だったので全体的に黒っぽい感じですが
真夏に見れば葉が生い茂って緑色のかたまりになっていることでしょう。

駐車場の車も同じくツタにまかれています。
かなり長い間、使われていないのだろうなぁ。
自販機がきれいなのは、おそらく業者さんが商品補充の時に
メンテナンスをしているからでしょう。
1階の窓や戸も無事なので、それなりに手入れをしているものと
思われます。

※「北区の風景・街並み

出入橋

2013-01-25 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
交差点や高速道路出口の名称としてよく耳にする「出入橋」。





「wikipedia:出入橋出口」阪神高速道路11号池田線の出口
「wikipedia:出入橋駅」阪神電気鉄道の最初の開業 区間。

出入橋はこの地にかつて存在していた運河にかけられていた橋です。
運河は堂島川から蜆川(曽根崎川)を通り、さらに大阪駅まで通じていました。
名称は堂島川~駅構内までが「堂島掘割」、駅構内部分が「梅田入堀」。



大正13年「大阪市パノラマ地図」。
出入橋より東の蜆川はすでに埋め立てられ、市街地化しています。
川の西側の埋立が完了したのはこの地図が発行された大正13年。
堂島川・蜆川に交差しているカギカッコの片割れみたいな形状の運河が
堂島掘割・梅田入堀です。
大阪駅に出入りするための掘割にかけられた橋だから、出入橋という名になったんだろうな。

出入橋の北側に書かれているのが新出入橋でしょうか。
橋の上を通る線路は大阪市電でしょうか。
2号線の新出入り橋東交差点に欄干の一部が残っているようです。

『大阪の橋ものがたり』という本によりますと、
大阪駅~蜆川までの運河が作られたのは明治10年、翌年には堂島川まで延伸。
そのため、江戸時代の地図には出入橋は載っていません。
この運河が作られたことで、明治8年に敷設された鉄道の安治川支線(大阪~安治川間)が
廃止されたのだそうです。
さすが水都・大阪、鉄道よりも運河を活用した水運の方が便利だったらしく
さらに昭和5年に梅田北ヤード部分まで堀が拡張されました。
鉄道や道路の発達により、運河の埋立が進んだとの話はよく聞きますが
その逆のケースは珍しいのではないでしょうか。

梅田入堀は昭和40年代に埋め立てられ、今はありませんが
出入橋は道路の一部に姿を変えて残っています。



堂島掘割は埋め立てられ、上空に阪神高速が通っています。



高速道路にフタをされて陰気くさい雰囲気になってしまいましたが
古びた石畳がいい感じ。
今の橋が架橋されたのは、昭和10年。
当時は美しくモダンな橋だったのだろうなぁ。

橋のたもとにある有名な和菓子店「出入橋きんつば屋」の創業は1930年。
出店当時は掘割は現役、梅田入堀がさらに拡張した年でもあり
たくさんの船がこのお店の前を行きかっていたのでしょう。
ここのきんつばは最高に美味しいです。
私はアンコが苦手ですが、ここのきんつばは別。
ひとむかし前は福島や堂島界隈の会社のひとの手土産の定番は
ここのきんつばでしたが、今はどうなんでしょうか。



側面。
なんかパイプ状のものが取り付けられていたのでしょうか。



とても立派で美しい橋なのですが、全く目立ちません。
老朽化が進んでおり今後が心配。

ところでわたくし、長いことこの出入橋が北区・福島区の境界だと思っていました。
この界隈が北区であると知ったのは、結構最近。
洋食屋の「インペリアル」に行った時でした。
住所を調べてびっくりしました。
明治時代の古地図を見ると、「上福島」の一部になっているものがあります。
(福島区はかつては北区の一部でした)
実際の福島区と北区の境界は、梅田橋があったあたりです。

「出入橋きんつば屋」
住所:大阪市北区堂島3-4-10

※「北区の風景・街並み

浄祐寺

2013-01-23 | ・北区堂島・堂島浜ほか:風景・建築・史跡
梅田橋の近くに「浄祐寺」というお寺があります。



このあたり、周囲はぎっしりと建物が建てこんでいます。
お寺だけが取り残されたよう。
都会のお寺さんはビル風に建替えている所も多いのですが
こちらは昔ながらの古風なお寺と言う感じ、少し鄙びた風情もあります。
(大都会のお寺なのに)

文楽プログラム(2012年9月公演)添付の地図にもその名があります。



他の古地図をいろいろ見たところ、「浄福寺」と書かれていることもあります。
たぶん誤植でしょうね。
古地図っておおらかに出来ていて、地名や寺社名の誤記はけっこうあるみたい。
船場や島之内のような都心部ならある程度正確だと思いますが
曽根崎や福島みたいな郊外は発行前にちゃんと確認せずに、
以前の出版物を見てテキトーに書いてしまっていることもあるんじゃないだろうか。

門の隣に看板が出ていました。



「当寺境内
赤穂浪士 矢頭長助の墓 矢頭右衛七の墓
歌舞伎恋の緘〆 五大力の墓」

こんな所に赤穂浪士のお墓が!
赤穂浪士のお墓って東京の泉岳寺じゃないの?

「wikipedia:矢頭長助」(矢頭教兼の父親)
「wikipedia:矢頭教兼」(通称は右衛門七)
「大阪市HP:浄祐(じょうゆう)寺

父親である長助は赤穂城開城後、大阪に転居したが、討入り前に死去。
ここ浄祐寺に葬られた。
息子である右衛門七がその遺志をついで討入りに参加。
矢頭家は困窮していたため、討入りに参加するための交通費が無く、
里人に借金、そのお金は後日大石内蔵助が返済。
(長助と右衛門七は蜆売りをしていたそうですが、蜆川でシジミ採りしてたんですかね)
討入りの話を聞いた里人が後日、長助のお墓の隣に右衛門七のお墓を作った…のだそうです。
おそらくお骨の入った本物のお墓ではなく、記念碑的な感じじゃないでしょうか。

私は見ていませんが、昨年末NHKの番組で取り上げられています。

「NHK 歴史秘話ヒストリア:せつなき10代 熱き忠臣蔵~赤穂浪士 若者たちの決断~

「赤穂観光協会:矢頭右衛門七教兼

右衛門七はかなりの美少年だったそうです(享年18歳)。
親孝行や家族愛にまつわるお話が残されており
忠臣蔵のエピソードのひとつとして矢頭家の物語は有名みたい。

1955年に右衛門七を題材にした映画がつくられています。
タイトルは「元禄美少年記」、主演は中村嘉葎雄。

昭和39年には舟木一夫が「右衛門七討入り」なる曲をリリース。
舟木一夫はこの時期の大河ドラマで右衛門七を演じていました。
昭和57年年の「峠の群像」の時は野村義男でした。
これはうっすら覚えています。
当時は「たのきんトリオ」の一人で人気絶頂のアイドルでしたから
美少年役が回ってきたんだろうなぁ。
個人的にはヨッチャンのどこが美少年なんかよく分かりませんが…
なお中村勘三郎さん主演の「元禄繚乱」(平成11年)の時は今井翼くん。

そしてもう一つ、「五大力の墓」とは?

歌舞伎の「五大力恋緘」に登場する殺人事件の被害者のお墓があるのだそうです。

「コトバンク:五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)
「wikipedia:盟三五大切(かみかけて さんご たいせつ)

文楽では「国言詢音頭」「置土産今織上布」。
曽根崎新地で起こった大量殺人事件(実話)を題材にしたちょっと怖いお話のようです。
武士に惨殺された遊女菊野をはじめとする5人のお墓があるのです。

鶴屋南北の「盟三五大切」は「五大力恋緘」の書き換えで、江戸が舞台。
「東海道四谷怪談」の後日譚という設定だそうです。

「wikipedia:四谷怪談

「四谷怪談」は「忠臣蔵」の外伝です。
「東海道四谷怪談」「仮名手本忠臣蔵」の佐藤与茂七は矢頭右衛門七がモデル。
その人のお墓が同じく忠臣蔵の外伝として書かれた「盟三五大切」の登場人物と同じお寺にあるなんて。
物語の世界でも実際の世界でもつながっているんですね、ちょっと不思議な感じ。

「浄祐寺」
住所:大阪市北区堂島3丁目3-5

※「北区の風景・街並み

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※追記 2014.07

下記ページに浄祐寺のご住職さんのお話が掲載されています。

「#曽根崎心中:天満屋そして梅田橋の面影を探し求めて

『浄祐寺の和尚さんが教えてくれた堂島新地と蜆川の面影』というサブタイトルの章です。
堂島新地はその昔、わりとリーズナブルな値段で遊べる遊所だったそうです。