いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

原爆の日と政治論。the day of an A-bomb & political theory

2024-08-10 20:38:23 | 日記
 (1)五輪での表彰式での選手の政治的抗議行動をみているとやはり不自然で、スポーツと政治は別ものということを実感させられる。原爆の日と政治はどうか。
 8月9日の長崎原爆の日(平和祈念式典)では、核保有国を含む世界101か国、地域が参列を予定して、過去最多となった。
 ウクライナ戦争でのプーチン大統領の核使用もあり得る発言に世界が危機感を共有していることが考えられるが、一方で長崎市はその露、それに協力するベラルーシに加えてイスラエルを「不測の事態が発生するリスクの懸念がある」(報道)として招待しなかった。

 (2)これに米英など主要6か国が「イスラエルを露やベラルーシなどと同列に置くことになる」(報道)と長崎での平和祈念式典に駐日大使の参列を見合わせることになり、波紋がひろがっている。原爆の日と政治は別ものというわけにはいかない。
 広島でのもう二度と過ちは繰り返しませんの意思、決意は世界の政治の責任であり、核保有国も核開発を目指す国もそうでない国も一致した思い、決意であるべきだ。

 (3)政治にかかわる世界のすべての国、地域、人々の思い、参加、参列のもとに冥福し、誓いを確認すべき原爆の日、祈念式典であり、政治的理由、判断で参列、参加を拒む必要などない原爆の日、誓いの場だ。
 原爆の日、祈念式典を政治は切り離すことのできないパラレルな関係にあり、あらゆる事情のある国、地域でも参列、参加して世界が二度と過ちをくり返さない誓いを確認する日にしなければならない。

 (4)むしろ政治的背景、軍事的行動を別にする露、ベラルーシや北朝鮮、イランもそういった世界の輪の中に入って反核への大きな流れをつくる努力、工夫、決意を示す必要がある。
 原爆の日と政治が不可分の中で長崎市がイスラエルを招待せずに、これに米英など主要国大使が参列を見送った政治的「対立」は原爆の日が政治の事情で利用されて、パラドックスとして政治とは別ものとして「対立」を迎えたのは唯一の戦争被爆国日本として、世界に核兵器禁止を訴える日本としては向かうべき方向ではない。
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