沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩576 琉球沖縄の現実 7

2014年12月18日 16時05分57秒 | 政治論

 アナ・ノヴァク「14歳のアウシュビッツ」(1966年ハンガリーで出版、67年独語訳、68年仏訳)

 この、当時14歳だった少女が書き綴った手記が年少者の驚異的な天分を余すところなく表出していると言って、下手に激賞して終わると恐らくはこの書が齎さんとしている恩恵に浴することから除外される、というふうに現代的に読むことが必要なのかな、と思われた。現代は本質的に悲劇的な時代だとD・H・ロレンスは言う。悲劇とは何か?

 彼女は通り一遍の正邪判断や市民的好悪、一般にいう公序良俗、あるいはなべて「個人の自由」の地平から逸脱する一切の束縛に対して「歯向かう」ように考える。彼女の言葉は翼を求め、目を曇らせようとするまやかしに唾を吐き、未だ何物にも就きがたい心情と精神の赴くがまま、事の真相に肉薄していく。

 プアシェフ労働強制収容所の所長があの悪名高いアーモン・ゲートなのだが、主にこの収容所での隷属生活を描いているノヴァクの手記には、彼の残虐性にまつわる話はともかく、起こっているジェノサイドや虐待すらとうに咀嚼されていて出てくるのは馬鹿馬鹿しいほどに「日常化」された「死」の横行であった。そしてこうした状況下、言葉として選ばれるのは飽くまで彼女の、それまでの14年間に獲得した生存に関するなまの感覚の生きた証しであり、感情のありのままの姿であった。

 サルトル、ボーボワールが絶賛したというこの少女の手記について、ここで今更読後感想を綴る気はない。彼女がその後ほぼ職業作家としてある程度の成功を収めたことは彼女自身にとっては幸福な恩寵であったろう(2010年没)。が、「シンドラーのリスト」に描かれた収容所風景は余りに生ぬるく「甘いシロップ」程度にしか思えないと言っている。ことほどさように「現場」で起こっていることはまさしく現場の人間しかその目や耳、五感において捉えきれない「惨状」を示しているだろうと、我々は勝手に思わざるを得まい。

 このような作品に触れるにつけ、過去現在今後辺野古や沖縄基地周辺で生活を続ける人々が騒音、爆音、深夜の飛行訓練、あるいは流れ弾、兵士の有り余った欲望のまま繰り返される不祥事、いつ墜落してくるか知れないなくもがなの戦闘機、オスプレイ飛行、必ずしも要とされない新基地造作計画実行、分断される市民感情、なんぞに悩まされている実態について、人間らしい想像力を働かせて、「惻隠の情」を催すのが普通の人間のすることですよ、と思ったりする。(つづく)