沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩575 琉球沖縄の民衆力

2014年12月02日 09時41分53秒 | 政治論

 米国中西部ミズーリ州セントルイス郡ファーガソンで起きた白人警官による黒人少年射殺事件(少年は丸腰だった)で、当の白人警官が不起訴になった裁判を不服として全米170以上の都市で暴動や抗議行動が起こされたが、これと1970年師走に沖縄県コザ市(現沖縄市)で起きたコザ騒動との奇妙なアナロジーを考えると、「人種差別」乃至一般に差別という観点から捉えたとき、大国アメリカが根源的に抱えている心的傾向(白人優越主義乃至アングロサクソン覇権主義)に陪審員制度が絡んで(9人の白人と3人の黒人で構成された)司法の公平性がグレイに褪色すれば、それが世論を席巻し真実を骨抜きにし圧倒的な国家的正義に変貌する恐るべき実態、つまり沖縄県について言えば、日本政府がお墨付きを与え地位協定そのままの治外法権的な米国優位主義によって手厚く保護された、理不尽にして不当な植民地扱いに倦まぬ彼らの、ふてぶてしい実態を知ることになる(但しファーガソン事件で不起訴になった白人警官は恐怖感からその後警察を辞職している)。ここでこの全米に及ぶ抗議活動の暴動性や暴徒化に言及し略奪暴行放火等不祥事化する一連の愚劣犯罪を殊更論うことは恐らく公平性に欠ける。因みにコザ騒動の特異性、あるいは一種の抗議活動的な正当性は、そうした一般的な愚劣犯罪を惹起しなかった、抑制され統制さえされた米兵車両への破壊行為が有していた象徴的なメッセージ性にあった(略奪暴行迷惑行為は、米兵車両以外の一般市民に波及することはなかった....こうした統制された行為に当局がその背後組織を想定したのは当然の成り行きだったが立件されることはなかったし、実際全くの偶発的な合意というべき市民集結様相を示していた、と評価されている)。

 我々人民を最後に確実に最大級で抑圧することができるのは、国家権力等権力ではない。米国にベトナム撤退を強いたのは民衆の抵抗にほかならないし、インドの地から大英帝国を追放したのは「非暴力不服従」の民衆運動であった。歴史が証明している。先の大戦でアジアを解放したのは日本軍ではない、当該地に長年欧米の植民地として苦渋を強いられてきた民衆の本来的な独立への意思であり、「民族自決権行使」の高らかな表明であった。

 今、琉球沖縄に燃え立とうとするのは、安倍晋三以下この国の戦後を決定的に台無しにしてきた自民政権への挑戦状として、一歩一歩民衆力を結集することであろうか。(つづく)