沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩626 偽物横行の世界的現象と沖縄の闘い 13 私見 2

2017年04月13日 08時34分36秒 | マスコミジャーナリズム

 現在取り分け沖縄県の市民運動にあって、顕著な理念としてある非暴力不服従による活動というのは、これに当たる個人において、極めて精神的な意味でしか捉えられないものなのであろう。それはまず第一に、圧倒的な権力の行使によって引き起こされる絶望的な現状に直面して、現実に夫々の個人に生起する心理的な確執、葛藤等の動揺、あるいは減退する動機、挫折感、諦めまで、運動主体の内面的な問題として逆輸入されるからだ。

 精神的なものである以上、この世では決してありきたりの「希望」には直結せず、外力(暴力)によって奪われ、「希望」こそが未来への最も果敢ない幻想(淡い望み)だと気づかされるようなものだ。ここでは人々にとって「希望」は(運動における)無駄で邪魔な心理的惑わしにすぎず、今となってただただ辺野古等基地問題を巡る「時間」の相対性(それはある人には長く、ある人には短いと言った意味になる)をまざまざと認知させられるが、勿論ここでも「希望」はなくむしろ絶望的悲哀を用意している。「一体いつまで琉球沖縄はヤマトゥ国民によって愚弄され犠牲を強いられ時の権力に蹂躙されなければならないのか」「一体いつになったら沖縄はヤマトゥ国民の同朋意識に直結する存在となるのか」

 さはさりながら辺野古は20年以上たっても未だ直接工事には至ってないし、空約束の「5年後返還」など当初から埒外に吹っ飛んでいた。つまりは「辺野古唯一」「沖縄負担軽減」の大嘘が時間による淘汰でかくも愚かしい正体を臆面もなく晒しているというわけだ。こんな児戯にも等しい国策があっていいはずもないのにヤマトゥ国民は狂気の支持率をこのアベに献上している。

 ここで沖縄人が流されるままチルダイ(絶望的現状を見せつけられて単純に絶望すること)するのは個人の勝手だ。しかし運動自体がチルダイするのは「非暴力不服従運動」の本質を理解してないためと言える。

 この精神的な闘いが有効なのはそれが精神的だ、という事実にこそ掛っている。この闘いの絶望的な現実は、それ故にこそ物質化する(有効化する)精神の力を意味する。敵(あらゆる外力、権力的圧迫、弾圧、暴力的言辞)は、(権力的)暴力の有効性を愚かにも固く信じてやまないのだが、それの有限性については顧みないで結果的にその残された膨大な後始末を前に意気消沈する羽目になる。そして、非暴力の不服従が一つの物質的力を持っていることに漸く気づかされる。(一方運動主体がこの事実を十分に認知してないと、容易に敵の思う壺に嵌ることになる、というのは常識だ。)

 ところで数に恃むというのが多数決原理絶対信奉の現行選挙制度が作り出した自公系政治基盤と言えるが、この制度の不備、民意を正確に反映しない矛盾などを考えれば、自公系政治権力の横暴は国民的な実質的支持を得られてない空威張りだということがわかろう。獲得議席数や支持率は今や空疎な数字の羅列にすぎない(メデア等の世論調査の馬鹿馬鹿しいカラクリは既に無様に暴露されている)。従って、自公系「辺野古唯一」は元々何らの正当性もない、対米追従、幻想的日米安保妄信、あるいは日本版軍産複合経済主義から引き出された唯一性であり軍事的戦略的根拠もありはしない。地政学なる訳の分からない言い訳も見苦しい、沖縄にとって実に無礼で情けないヤマトゥ的でたらめである。

 アベが煽っている北朝鮮脅威とこれに呼応する軍拡は、理屈から言って沖縄からは全く逆の意味でしか捉えられてない。「軍隊は住民を守らない」「軍事展開は住民を犠牲にして作戦遂行に走る」「戦争は必ず一般国民を巻き添えにしてこれに最大の犠牲を払わせる」「参謀本部は机上に作戦を練るが作戦の国民への影響には現実的に対処しない」「将軍の勲章は彼がいかに多くの人民を殺したかを意味する」つまり国民、人民にとってその国が戦争できる国であるときには、必ずおのれらが真っ先に矢玉の標的となることを意味する。そしてその国が戦争に負けた時、最も逃れようのない苦痛を強いられるのは国民である。

 何しろ、北朝鮮からの弾道ミサイルは確実に在日米軍基地を標的とし、最大の軍事施設がある沖縄は恐るべき火の海と化す。我々はあのアベに殺されるわけにはいかないのだ。あんなやつにいたぶられるわけにはいかないのだ。ウチナンチュウよ辺野古に結集せよ

(つづく)