出雲からの帰りに能登国一之宮の
気多大社※ で参拝。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/83/ae612720cefa82a560a8f347e744263d.jpg)
勝手解釈すると、
「気多(けた)」は、「気(け)」は食のことで、「多(た)」は文字通り、多いということならば、「食物は多くて豊か」。
御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、大国主の別名。
遠く離れた能登にありながら、出雲王権の大国主を祀っている。
社伝『気多神社縁起』に
「第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降」
とあるとのことで、
第10代崇神天皇が3世紀ころ(古墳時代に)と想定すると、
2世紀以前(弥生時代)には、出雲の勢力が訪れて治めたことになる。
出雲と能登のつながりの証拠はいくつもある。
・『出雲国風土記』の「国引き神話」では、東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸(の能登半島珠洲の)三崎から、引いてきたとある。
・因幡国白兎伝説の地は、「気多」の岬。
・出雲に多い四隅突出型墳丘墓※2 がある。
出雲から気多大社のある羽咋までは直線距離にして400キロメートルほどもあるが、木船で移動した時代、日本海を通じて大いに交流があった。
ところが当方が住む奥能登の柳田は、気多大社から直線距離は70kmほどで近く、歩いて2日ほどの距離であるが交流の足跡がない。
柳田は周囲が山に囲まれて海がない。
気多神社もない。
近くても山々に囲まれた土地であると、植物が密に生い茂る陸地を移動するのは困難で交流がなかったことを想像させる。
ちなみに、能登半島突端近くの、珠洲の三崎には、「須須神社(すずじんじゃ)」がある。
御祭神の一柱は、「美穂須須美命(みほすずみのみこと)であり、「美穂(みほ)」は、島根の三穂(美保)の埼(さき)のことであり、このことも能登と海上を通じた交流がさかんだったことをうかがわせる。
ほかの二柱は、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメである。
出雲の国譲りの後の天孫降臨の神様である。
崇神天皇の御代に山伏山の頂上に創建され、八世紀、孝謙天皇の代に当地に遷座したと伝える。
律令国家として体裁を整えた時期に、大陸からの脅威から守るため、都の鬼門の方角(東北)の能登半島の突端の地に邪気の侵入を封じる守護神として置かれた。
※ 石川県羽咋市寺家町。能登国一宮。
創建(ウィキペデイアより)
・第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降(社伝『気多神社縁起』)。
・気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放した(『気多社島廻縁起』)
・祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座(『気多社祭儀録』)
※2 四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期以降、おもに備後北部・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称する(ウィキペデイアより)
気多大社※ で参拝。
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勝手解釈すると、
「気多(けた)」は、「気(け)」は食のことで、「多(た)」は文字通り、多いということならば、「食物は多くて豊か」。
御祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、大国主の別名。
遠く離れた能登にありながら、出雲王権の大国主を祀っている。
社伝『気多神社縁起』に
「第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降」
とあるとのことで、
第10代崇神天皇が3世紀ころ(古墳時代に)と想定すると、
2世紀以前(弥生時代)には、出雲の勢力が訪れて治めたことになる。
出雲と能登のつながりの証拠はいくつもある。
・『出雲国風土記』の「国引き神話」では、東端の「三穂(みほ)の埼」は北陸(の能登半島珠洲の)三崎から、引いてきたとある。
・因幡国白兎伝説の地は、「気多」の岬。
・出雲に多い四隅突出型墳丘墓※2 がある。
出雲から気多大社のある羽咋までは直線距離にして400キロメートルほどもあるが、木船で移動した時代、日本海を通じて大いに交流があった。
ところが当方が住む奥能登の柳田は、気多大社から直線距離は70kmほどで近く、歩いて2日ほどの距離であるが交流の足跡がない。
柳田は周囲が山に囲まれて海がない。
気多神社もない。
近くても山々に囲まれた土地であると、植物が密に生い茂る陸地を移動するのは困難で交流がなかったことを想像させる。
ちなみに、能登半島突端近くの、珠洲の三崎には、「須須神社(すずじんじゃ)」がある。
御祭神の一柱は、「美穂須須美命(みほすずみのみこと)であり、「美穂(みほ)」は、島根の三穂(美保)の埼(さき)のことであり、このことも能登と海上を通じた交流がさかんだったことをうかがわせる。
ほかの二柱は、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメである。
出雲の国譲りの後の天孫降臨の神様である。
崇神天皇の御代に山伏山の頂上に創建され、八世紀、孝謙天皇の代に当地に遷座したと伝える。
律令国家として体裁を整えた時期に、大陸からの脅威から守るため、都の鬼門の方角(東北)の能登半島の突端の地に邪気の侵入を封じる守護神として置かれた。
※ 石川県羽咋市寺家町。能登国一宮。
創建(ウィキペデイアより)
・第8代孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降(社伝『気多神社縁起』)。
・気多大菩薩は孝元天皇の時に従者を率いて渡来した異国の王子とし、能登半島一帯を巡行して鬼神を追放した(『気多社島廻縁起』)
・祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、神代からの鎮座(『気多社祭儀録』)
※2 四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期以降、おもに備後北部・山陰・北陸の各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。四隅突出型弥生墳丘墓とも呼称する(ウィキペデイアより)