浅科の五郎兵衛米をいただいて

2011年01月13日 | 日々のこと
暮に佐久の浅科の五郎兵衛米のうるともち米をいただいた。「感想を」の言葉も添えて。

 お年取りと元旦の食事の最後の締めに、「おいそぎコース」で炊いた熱々を塩おにぎりにして出した。のん兵衛の多い我が家では、普段はごはんまでたどり着く者は少ないのだが、この塩味だけのおにぎりは上は80代から下は1歳までが、しっかり手をだすのである。

 元旦はその量を倍にした。伸びる手を見て私は2つ目を我慢した・・・・それでも娘の言うには婿さんも我慢したのではないかと・・・・。

 お腹の状態から言えばもう食べられないけれども、このおにぎりなら食べられてしまうらしい。

 電気釜も「おいそぎコース」の強火で炊くほうがベターである。

 もう10数年前の米不足覚えておられる方も多いと思うのですが・・・。
あの夏冷夏でした、旧盆の時期に涼しさを通り越したような日が続き、それと稲の開花が重なったのである。開花する時、何時間かお日様が出なければダメなのだと、その時父に教わった。

 8月下旬には、今年のお米が大不作であるとわかったのである。ここがこんな状態なら、東北はもっとではないかという父の予想通り、実りの時期を迎えても、直立のままの稲をたくさん見たものだった。

 夏の終わりから、都会のお客様に「今年はお米がとれませんよ、凶作です、確保なさったほうが・・・・」と仕事の電話の折の世間話でお話しても、なかなか信じてもらえなかったのでした。

 我が家はその年いつもの1割ほどの収穫量だった。その新米を炊いた日、それがとても食べられる代物ではないことがわかった。お米の味なんてそんなに違いがあるのかなという位、お天道様と米の飯は当たり前という時代の申し子である私の初の経験だった。

 結局自家米は加工用に出荷し、縁を頼ってこの年「五郎兵衛米」を購入したのである。さすがにこんな年であっても「五郎兵衛米」はおいしかったのである。
 そして翌年我が家の新米を炊いてみて驚いたのは、我が家の新米よりも、1年たった五郎兵衛米の方がおいしかったという事実である。

 我が家の田は土質もいいし、篤農家の父のつくるお米が決して劣っているわけではなく、あまりにも五郎兵衛米がすごかったということなのである。

 今になると五郎兵衛米が通常の倍位のお値段で取引されていることを知っているけれど、当時そんな価格で流通していることを認知していたのだろうか。縁をたよっての食米の確保だったけど、随分と損をさせてしまっていたかもしれない。

 戦中戦後の食料のない惨めな経験をした年代の実家の父は、商売はしていても、食べる米を作ることだけは止めてはいけないと、兄にも弟にも田んぼを作り続けることにこだわった。

 しかし現実問題として、農家の我が家でさえ、委託に出さざるを得ない状態であるから、兄も弟もまたしかりである。

 ここ暫く騒がれているТPP問題。

 日本の主食である米も、安さだけを追い続けるならば、ささやかにも自分の食べる米だけでも作りたいとしている、今現実に日本の農業を担っている高齢者の消滅とともになくなっていくだろう。

 戦中戦後の食料難を知る人が少なくなっていくけれど、十数年前のこの時代でさえ凶作はありえるのだ。

 安さだけを追い求めたら・・・・・生産者は自家用米だけで・・・・あなたの分はしりませんよ、とどこかで必ず言われる日が来ることを覚悟しておくべきだと思う。

 依田美恵子
軽井沢・佐久で建てる外断熱・省エネ住宅 中島木材の家


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