読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

関東の名城「鉢形城」を訪ねる

2008年11月12日 | 里歩き

日本100名城のひとつ「鉢形城」
 一時中断があったが、このところ毎年、50年前に1年間一緒に学んだ仲間が
 秋になると集まる。同じ釜の飯を食った仲間という表現がある。固い絆の代表
 的な関係であるが、寄宿舎で文字通り同じ釜の飯を食って学んだ仲間である。
  これまで35名の仲間が全て健在で、同期会の度にそれを喜び合ったものだ
 が、今回初めて2名の物故者に黙祷をささげる哀しい会になった。これも時の
 流れの結果。避けては通れない。

  今回は埼玉県大里郡寄居町の金山温泉のある宿で泊まり宴会。翌日は荒
 川の船下り(長瀞船下り)コースと「鉢形城」歴史探訪コースに分かれて行く秋
 を楽しんだ。
  「鉢形城」は一昨年の新緑の頃、鉢形城の見張り砦が置かれた「鐘撞堂山」に
 登り、少林寺の「五百羅漢」を観てやはり同じ宿に泊まって、翌日「鉢形城」を見
 学したことがある。昭和7年に国の史跡に指定され、日本100名城に認定され
 ている。
  
  元来この地は交通の要衝であり、旧くから関東にとっては上州と信州方面に
 対する重要な戦略拠点であった。今もこの地理的重要性は変わらず、現在も
 「寄居駅」はJR八高線、東武東上線、秩父鉄道の連絡駅である。
  「鉢形城」は寄居駅から南に、荒川に架かる橋「正喜橋」を渡った地に位置し
 ている。荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれた広大な平城で、ま
 さに天然の要害を生かした名城のひとつである。(全体で24万平方メートル)
 
           
        1/250復元地形模型    本曲輪跡から荒川     城内を流れる深沢川

  

   さて、ここ「鉢形城」は文明8年(1476)当時の関東管領山内上杉氏の家臣
  長尾景春の築城と伝えられ、その後畠山重忠、上杉顕定、上杉顕実が城主
  となったが、北条市の勢力が武蔵野国を圧倒し上杉氏が一掃された後、こ
  の地の豪族・藤田康邦に入婿した北条(小田原)氏康の四男氏邦がこの城
  に入り整備拡充し、現在の大きさになったと伝えられている。その後永禄12
  年(1569)武田信玄が小田原攻めに際し、鉢形城も攻撃したが守りが堅いた
  めそのまま南下し滝山城に向かった。また天正2年(1574)上杉謙信に侵され
  城下を焼かれたこともあった。当時の群雄割拠の中で、甲州・信州からの侵
  攻への備えとして重要な役割を担った城であった。
   天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めでは後北条氏の重要な支城
  として前田利家・上杉景勝らの北国軍に包囲され、激しい攻防戦が繰り返さ
  れた。およそ1ヶ月あまりの籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に開城、
  自らは前田利家預かりの身となった。

   その後「鉢形城」は徳川氏の関東入国に伴い、家康は以下の成瀬正一、
  日下部定好が代官となり治めた。

   
                
                土塁址             内堀址           二の曲輪の土塁

           
     搦め手・石垣跡       二の曲輪土塁・空堀     二の曲輪・復元木橋

              
    二の曲輪・江戸緋寒桜


 鉢形城歴史館
   広大な鉢形城址は全体が鉢形城公園となっているが、その一角に「鉢形城
  歴史館」があり、鉢形城を巡る歴史紹介・
企画展示等が催されている。

  (有料200円 休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始)

         
    歴史館正門        櫓門模型            関東の城           

    

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