日銀券を増刷して日本国を救う村島定行のBlog

①日本は世界最大の債権国、お金がなければ刷りなさい②英語を多用すると次第に馬鹿になる③靖国参拝は日本人の義務だ。

朝鮮出兵における島津義弘の軍功

2008年05月05日 | 文化
 島津義弘の軍功記というものを読んだ。島津義弘は関が原の戦いにおける敵中突破が有名であるが若い頃から戦いに明け暮れている。いくつもの戦いを勝利し、島津を九州一の大名に育て上げる。有名なのは大友宗麟を敗北させた耳川の戦いである。敗北した大友氏が秀吉に助けを求めたことが切っ掛けになり秀吉の九州征伐では攻められることになった。関が原の時は65歳で中央突破で1500名の薩摩軍は最終的には80名にまで減りながら大坂まで逃げ延び鹿児島まで生還している。その直前朝鮮出兵においても名を上げている。義弘は家久とともに8000人の薩摩兵で四川新城に終結していた。そこへ明国の董一元を総大将とする20万の軍勢が押し寄せてきた。義弘は十分引き付けたあとの鉄砲の一斉射撃でこの大軍を崩壊させ、大勝利をあげた。8000名の薩摩兵で8万の明国の兵を殺したと言われている。薩摩軍の勇猛ぶりは明軍から「鬼石曼子(おにしまず)」と言って恐れられた。
 その後、豊臣秀吉が死に朝鮮の日本軍に帰国命令が出た後、日本軍は釜山に終結したが小西行長の軍が順天城で包囲され、動けなくなった。そのため義弘は薩摩藩の水軍を編成し救援に駆けつけ、包囲軍を打ち破って、小西行長を脱出させた。その際、明軍の副将トウ子龍と朝鮮軍の大将李舜臣を戦死させ、明国と朝鮮の連合軍を敗走させている。総大将陳リンも日本軍に包囲され、危うく難を逃れている。帰国命令が出ていたため、ほとんどの大名が我先に帰国していったが島津義弘だけが殿軍を勤め、全軍の無事の帰国を実現させている。朝鮮出兵というと加藤清正や小西行長が有名であるが島津義弘の戦功は随一である。帰国後五大老からお褒めに預かり、島津家だけが加増(禄高が増えること)されている。島津義弘は単に強いだけでなく、1599年義弘、家久親子の名で高麗の陣における戦没者に対し敵味方の区別なく懇ろな法要を行い、供養塔をたてている。これは広く博愛慈悲の心を表すとして海外にまで広く称えられている。茶道に関しては島津義弘は千の利休の高弟であり、産業振興や治山、治水の大家でもあった。
 義弘の働きもあって薩摩の軍勢が強いというのは定評になっていく。薩摩の軍勢はその後もいろんなところで勇猛をはせている。例えば薩英戦争は一般には薩摩藩がイギリスに完敗したと流布されているが薩軍の死者5人に対して英国艦隊は13名の死者をだしている。死者の中には旗艦艦長、及び副長が含まれており、死傷者は68名に上り、被害は甚大であった。英国は鹿児島を占領するために来たが占領できず退却している。英国の軍隊はそれまで殆ど負けることはなかったが薩英戦争は例外で英国の数少ない敗戦と受け止められている。このあと英国は薩摩藩を見直し、幕府を支援したフランスと反対に、薩摩を中心とした討幕派を支援するように変わっていく。英国のこの方針転換は最終的には日英同盟へとつながっていく。
 日露戦争の奉天会戦では鹿児島の部隊が日本軍の中央にいて数的に優位のロシア軍を押しまくり退却させている。海でのバルチック艦隊を撃破したことにも薩摩出身の東郷平八郎などの貢献は非常に大きい。
 こう見てくると400年以上前の島津義弘の数々の軍功は300年以上後の日本の歴史に大きく影響していると考えることが出来る。
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