古事記は712年に太安万侶によって編まれたとされている。丁度1300年であるが古事記編纂を言い出されたのは壬申の乱を勝ち抜いて即位された天武天皇(在位671年~686年)である。稗田阿礼に帝皇の日嗣及び先代の旧辞を天武天皇自ら誦(よ)み習わせなさったとある。天皇は「偽りを削り実を定めて後の世につたへむと欲(おも)ふ」と言われた。この時期は古事記には記載されていないが日本書紀によると天武10年(681年)である。このとき阿礼28歳であった。天武天皇自ら「撰びたまひ、定めたまひ、詠みたまひ、唱え給える古語」なるがゆえに貴重なのである。天武天皇はお亡くなりになったがその言葉が稗田阿礼の「口に残って」いて現にここにあるから天武天皇が望む古事記が712年に編纂できたのである。古事記の実際の作者は天武天皇であろう。日本最大の内乱である壬申の乱を勝ち抜いて10年もすれば天皇としての権威が最高に高まった時期に日本の進む方向を定める古事記を作る力が備わったといえる。「偽りを削り実を定める」と言う言葉がそのことを示している。天武天皇が「実を定めた結果」が古事記なのではなかろうか。
古事記の序文に寄れば和銅4年(711年)9月18日に元明天皇から太安万侶に古事記撰録の命令があり712年1月28日に献上したとある。わずか4ヶ月ちょっとで出来上がるというのはとても信じられない。漢字でどのように日本語を表記するか困難があったというのであればなおさらである。こんな短期間で出来上がるのは腑に落ちない。
これは天武天皇の詔りにもとづく、古事記編纂が日本語表記の難しさで延び延びになっていて、710年ごろになって遅れて出来上がり献上できるようになり、改めて時の天皇に古事記編纂の詔りを出してもらったのではないかと思われる。古事記の内容が天武天皇が自ら稗田阿礼に誦み習わせたものである証拠に古事記の記述が推古天皇までで終っている事実をあげることができる。推古天皇の次は兄の天智天皇であり、そこまで触れるのは余りに近すぎることを憚ったものとおもわれるからである。
或は710年より以前に恐らく680年代の早い時期にに現在の形は出来上がっていたが日本語表記に確信が持てず献上できる状態になったとの判断ができなかったとも考えられる。恐らく太安万侶は711年に古事記撰録の詔りを受けたのではなく、もっと以前から撰録事業に携わっていたと考えられる。日本語表記に確信を持てるようになったというより政治的な判断で、このままで完成としようと謂うことになったのかも知れない。詔りが出て4ヶ月で完成するとは普通には考えられないからである。
古事記が712年よりかなり早くに出来ていたというのは古事記に上代特殊仮名遣いの内、日本書紀や万葉集では消えている古い形が残っているという事実とも符合する。
古事記の序文に寄れば和銅4年(711年)9月18日に元明天皇から太安万侶に古事記撰録の命令があり712年1月28日に献上したとある。わずか4ヶ月ちょっとで出来上がるというのはとても信じられない。漢字でどのように日本語を表記するか困難があったというのであればなおさらである。こんな短期間で出来上がるのは腑に落ちない。
これは天武天皇の詔りにもとづく、古事記編纂が日本語表記の難しさで延び延びになっていて、710年ごろになって遅れて出来上がり献上できるようになり、改めて時の天皇に古事記編纂の詔りを出してもらったのではないかと思われる。古事記の内容が天武天皇が自ら稗田阿礼に誦み習わせたものである証拠に古事記の記述が推古天皇までで終っている事実をあげることができる。推古天皇の次は兄の天智天皇であり、そこまで触れるのは余りに近すぎることを憚ったものとおもわれるからである。
或は710年より以前に恐らく680年代の早い時期にに現在の形は出来上がっていたが日本語表記に確信が持てず献上できる状態になったとの判断ができなかったとも考えられる。恐らく太安万侶は711年に古事記撰録の詔りを受けたのではなく、もっと以前から撰録事業に携わっていたと考えられる。日本語表記に確信を持てるようになったというより政治的な判断で、このままで完成としようと謂うことになったのかも知れない。詔りが出て4ヶ月で完成するとは普通には考えられないからである。
古事記が712年よりかなり早くに出来ていたというのは古事記に上代特殊仮名遣いの内、日本書紀や万葉集では消えている古い形が残っているという事実とも符合する。
古事記は実際よりも100年ほど後に成立し、作者は多人長(オオノヒトナガ)という人物であり
天皇の命で編纂されたのではなく偽書であるという説があります。
(倭国の時代、ちくま書房、岡田英弘著)
(1)
出雲風土記(733)が日本書紀(720)にはなく古事記には収められている。
これは普通に考えて、古事記の成立が出雲風土記より後である。
(2)
多人長は天皇や後宮の女性の世話をし宮廷音楽を管理する家柄であった。
そのことが恋愛や酒宴を題材にした古事記の特徴に一致する。
(3)
古事記には古代日本語の発音の表記に異常な注意を払っている。
それは、弘仁式(830)や延喜式を参考にしていると思われる。
(4)
日本書紀(720)は古事記(712)について書かれておらず、稗田阿礼すら出てこない。
これは古事記の方が日本書紀より新しいからである。
(5)
古事記の序文(ここが712年の根拠になっている)は、多人長が平安初期に勝手に書いたものである。
はやくも賀茂真淵は序文の内容に疑問を呈していた。
などなどです。
事実かどうかはわかりませんが、興味深い説です。
なおこの説は、大和岩男氏と鳥越憲三郎氏に多くを負っているそうです。
戦後基本的なものを疑うことが流行になり、継体天皇以前は存在しないとか聖徳太子は架空の人物であるとか古事記は偽書であるとか言われました。しかし流行に捕われずに書いてあるとおり信ずる方が正しい態度だと考えています。