「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 26 「同人雑誌の復活は可能か」

2016-08-22 04:30:11 | 日本文学の革命
まずかつての同人雑誌のような創作団体―文学系、美術系、音楽系、芸術系、あるいは哲学系学問系の団体は、技術的にはそのまま同人雑誌の再現が可能である。結成の旗印となる何かの理想を掲げて、仲間を集め、創作を持ち寄り、それを雑誌化して、世の中に向かってアップロードしてゆくことは十分可能なことである。これまでは文字しかできなかったが、今や写真や美術作品も高精度のものをいくらでもネットに出すことができるのである。バンドのミュージックビデオも簡単に撮ってアップロードできる。劇団の公演までビデオ撮影してネットで公開できる。僕の知り合いにネットでコントやネタ的企画を公開している若者がいるが、その技術や仕上がり具合はテレビ番組に負けないくらいである。それを365日毎日出すことを日課にしている。それだけの大量情報を公開できる容量も(しかも無料で)解放されているのである。

ただまだ戦前のようなネットワークは構築されていない。横の連携が悪く、相互の交流もほとんどなく、相互が離れ小島的に孤立して活動している。上のネットワークに至っては、既存のメディアが無視していることもあって、まったく構築されていない。しかし彼らの活動を励まし、その成果を引き上げるようなネットワークが築かれ、また同時に本当に発展する文化が彼らに与えられたのなら、彼らの中から戦前と同じような本物の文学者や芸術家が続々と現れることは十分可能なのである。

しかし志ざしといっても、戦前の同人雑誌のような烈鋭的で挑戦的な、悲壮感さえ感じさせる志ざしのみが志ざしなのではない。人間がやりたいと思うこと、情熱を込めて打ち込めるもの、他の人々と思いを共有し広めたいと思うこと、これはすべて「志ざし」なのである。そしてその志ざしを持って作られた雑誌はそれ自体が創作であり創造行為なのである。

電子同人雑誌の可能性 25 「誰もが出版活動を行える時代」

2016-08-21 18:28:45 | 日本文学の革命
そういう努力を重ねて、2000年に『日本文学の革命』というホームページを立ち上げた。これは当時権威にあぐらをかいたまま(当時はまだ日本文学には戦前から続いてきた権威が残っていたのである。今ではもうそれすら無くなったが)衰退してゆく日本文学を覚醒させ、復活させようとして掲げたものだった。しかしそれを聞いた『ネバーモア』の同人の女性が「そのタイトルはやめなさい!」と厳しく注意してきた。僕も強情だからそのまま通してしまったが、今思うと彼女の忠告は正しかったのである。「日本文学の革命」などという旗を掲げてしまったために、みんな恐がって近づいて来ないか、あるいは不遜な奴めと嘲笑うか、あるいは僕のことを全くの気違いと思うかだけで、広がりをもたらすことができなかったのである。実際に会うとそういう人物ではないことが分かるのだが、ネットは顔が見えない分そういう思い込みで決めつけられてしまうのだろう。

ただ同人雑誌的伝統でいえば、これは当たり前の行為だったのである。戦前の同人雑誌はどれもが「日本文学の革命」を掲げていたと言ってもいいぐらいなものであった。誰もが権威をものともしない意気軒昂な旗印を掲げて「俺がやる!」「俺にやらせろ!」と熱い情熱をたぎらせていたのである。ここでも僕は知らず知らずに同人雑誌的伝統を生きていたのであろう。

さて長々と思い出話を書いてしまったが、要するに言いたいことは、今日パソコンやインターネットを使えば誰もが簡単に出版活動を行えるようになったということである。立派な原稿を作ることもできるし、写真やイラストや動画まで利用できる。ネットを使えば大量の原稿をいくらでも流通させることができる。オンラインで書籍を買うサービスも当たり前のものになってきている。チラシや広告などの複雑な印刷物もネット注文で簡単にできるようになった。そのうち本の製造もネット注文で簡単にできるようになるだろう。

技術的には「誰もが出版活動を行える時代」が到来しているのである。別に出版活動を出版社が独占している必要はないのである。かつての同人雑誌の時代のように誰もが手作り手弁当で(しかも最新の技術を駆使して)雑誌や本を出版することが可能となっているのだ。
ではこのような技術的条件の上に立って同人雑誌の電子的復活が可能かどうかを考えてみよう。戦前の同人雑誌の興隆をもたらしたものは「志ざし―仲間たち―ネットワーク」であった。この条件は現代のコンピュータ・ネットワークで再現することができるだろうか。
(続く)


電子同人雑誌の可能性 24 「パソコンとの出会い」

2016-08-21 18:26:57 | 日本文学の革命
両親の家には2年ほど居候したが、その間母が滞納した家賃を月々返済して完納してくれた。苦しい生活の中なのに文句ひとつ言わずに返済してくれて、今はもう亡き母だが、感謝に耐えない。
その頃のことで、たしか95年の終わりの方だと思うが、ウィンドウズ95が発売され、それを手に入れようと店頭に大勢の人々が押し寄せ、一大コンピュータブームが世に巻き起こった。この95年は阪神大震災が起こったりオウム真理教事件が起きたりと、様々な意味で時代の変わり目となった年だが、今日に通じるコンピュータ社会が起こったのもこの年だった。僕もこの新しい技術が何をもたらしてくるのだろうと興味津々で見ていた。特に興味をもったのは出版技術に対する影響だった。パソコンに付属されているワードなるソフトを使えば自由自在に原稿を書くことができ、プリンタで簡単に印刷もできるという。またインターネットなるものを使えばどんな大量データでもアッという間に世界のどこにでも送れるという。またホームページなるものを作れば誰でも簡単に自分の作品や意見をインターネット上に公開することができるというのである。

表現や主張の場を求めていた僕はさっそくこれに飛びついた。その頃になると桑田佳祐をはじめとするミュージシャンたちが大々的に活躍して「反外国主義運動」を強力に押し進めていたので、僕が街頭活動する意味がなくなってしまった。しかしその頃から思っていたことだが、いくら華々しく活躍しようがマスコミを総動員して影響を振るおうが、“根本的な部分”を成し遂げない限り、この運動はいずれ未完成のまま終わることになる。なら自分はこの“根本的な部分”を成し遂げる仕事に力を尽くそうと。そしてそれを成し遂げつつ同時に発表できる場所として、このコンピュータとインターネットが利用できるのではないかとこれに期待したのである。

ただ当時のコンピュータは高かったので、すぐに手に入れることはできなかった。両親に家に居候していることをいいことに、アルバイトの金の多くを貯金に回し、コンピュータを買う金を貯めていった。
やがて両親の家を出て埼玉の南浦和の新しい住まいに移り住んだ頃には念願のコンピュータも手に入れていた。さっそくコンピュータの勉強を始めた。ウィンドウズの動かし方自体が分からず、参考書片手に懸命に学んでいった。付属のワードを使ってみたが、あのワープロ機械など問題にならない操作性で原稿を作ることができた。PDFのソフトも試してみて、その美しい仕上がりに感銘した。プリンタでの印刷もはるかに簡単で素晴らしいものだった(このワープロ機械は今思うと何が「最先端機能」だというところだが、骨董的価値が出るかと思い今まで持っていた。しかし先日我慢ができずについに捨ててしまった)。写真を取り入れたり加工したりするソフトやイラストを作るソフト、動画を加工するソフトなどもあり、それぞれ試してみた。ホームページ作成ソフトも購入し、実際にホームページを作成していった。

当時南浦和の駅前にはラオックスがあった。このラオックスは今では中国資本に買収されて、日本で中国人観光客向けに家電製品を売るという妙な店になってしまったが、当時はパソコン関連機器に特化した家電量販店だった。店にはたくさんの種類のパソコンや周辺機器やソフトが並ぶと同時に、たくさんのパソコン関連本もずらりと並んでいた。当時はパソコン関連本も大ブームとなっていて、この店でも力をいれたパソコン本が数多く並べられていた。ウィンドウズAPI関数の本が何十巻も置かれているほどだった。この駅前の店に足繁く通ってはコンピュータ関連の習得に励んでいった。

インターネットもさっそく試してみた。当時はダイヤルアップ接続で、接続するまで大分待たされ、また突然切れたりしたが、まったく新鮮な体験なのでドキドキしながら楽しんだ。2ちゃんねるなどの掲示板も試してみて、こちらが今入力した文章がただちに画面に反映し、それを見た誰かがただちに反応を返してくるというのも新鮮な体験だった。ネット動画も新鮮だった。当時は送信能力が低かったので解像度の悪い動画を小さな画面でしか見れなかったのだが、やはり新鮮で面白く『明日のジョー』などを目を細めて見ては楽しんでいた。テレビ機能もついていたが、これまでのテレビは画面いっぱいに広がりチャンネルを変える以外のどんな操作も受け付けず、こちらはただ見ていることしかできなかったが、パソコンでは画面を小さくしてテレビを見つつ、その横でゲームをしたり原稿を書いたりと、自由な操作ができるようになったのである。小さくしたテレビ画面とその横にネット配信の画面を二つ並べて「両方映ってる♪」と悦に入って眺めたものだった。

電子同人雑誌の可能性 23 「自費出版活動の思い出」

2016-08-21 18:24:43 | 日本文学の革命
しかし苦労して製本化したはいいが、それを売りさばく当てなどどこにもなかった。街頭活動をしているとき、一応足元に本を積み、手書きで値段も表示してたが、ついに一冊も売れることなく、興味を持って話かけて来た人に無料で配るだけだった。
同じく街頭活動をしているとき『ネバーモア』の同人たちとも知り合った。彼らが『ふたつにしてひとつのもの』を雑誌に連載してくれることになったので、出版パーティー(友人や知り合いや文芸仲間を呼んで、彼らに買ってもらうのである)に行ったときには、面白そうな活動をしている人にやはり無料で配った。少しでも興味をひこうと「これは夏目漱石の『明暗』を完成させたものです」と言ったりしたが、横で聞いていた同人の女の子に「漱石の『明暗』ってそんなに安っぽいの」とたしなめられたりした。

しかし結局100部ぐらいしかさばけなかった。活動資金などもまったく出来なかった。それどころか生活の危機が押し寄せてきたのである。『ふたつにしてひとつのもの』のクライマックスを書いている頃から、執筆に専念するためにアルバイトを辞めて貯金で生活していたが、それからすぐに「反外国主義運動」を始めたのでやはりアルバイトなんかやっている暇はないということで、母に泣きついて生活費を送ってもらっていた。それでも足りず家賃を滞納するということでなんとかしのいでいた。滞納が一年にもなった頃、さすがに家主さんから「出て行ってくれ」と言われたので、どこへ行く当てもないので原稿をいっぱい抱えて足立区にいる両親のマンションに転がり込んだのだった。

この追い出されたアパートは、八王子の近くの平山城址という小さな駅の裏手にあり、すぐ目の前には多摩丘陵の自然が広がり、アパートの横には川も流れていて、自然好きの僕にはお気に入りの場所だった。川には誰もやって来ない美しい河原があって、そこを自分の庭みたいにして行き来したものだった。その河原のどこかに子猫が住みついていた。生まれて間もないメスの子猫で、僕が河原に行くとどこからともなく駆け寄ってきて、いつまでもいつまでも僕の足元について来るのである。かわいいので毎日のようにエサを与えて世話をした。アパートで飼うわけにはいかなかったが、河原で出会ったら部屋まで連れてゆき、腹いっぱい食べさせて、ゆっくり寝かせて、また河原へ帰してやるのだった(この猫は一人前に成長したあと、あるオス猫と出会い、どこかへ旅立っていった)。
ここで一年半かけて『ふたつにしてひとつのもの』を書いたのであり、ここから渋谷まで出かけて「反外国主義運動」をしたのであり、僕にとっては思い出の地であった。


電子同人雑誌の可能性 22 「自費出版活動の思い出」

2016-08-21 18:22:47 | 日本文学の革命
ちょっと横道にそれたようだが、出版活動の思い出について書いてゆこう。
その「反外国主義運動」をしている最中、処女作『ふたつにしてひとつのもの』の自費出版を思い立った。もともとこの処女作を書いたことからこの運動を始めることになったのであり、不十分ながらもこの中に外国主義を克服する道が含まれているという思いがあったので、街頭で話しかけてくる人がいるとこれを配ったりしていた。ただ配ったといっても200ページもあるのでその一部だけを、しかも僕の悪筆で原稿用紙に書かれたものをコンビニで印刷して綴じたものを、配っただけだった。なんとか一冊まるごと配れないか(というより正直売りたかったのである。活動資金の足しにもできたからである)と思っていたのだが、その頃同じく渋谷のハチ公広場で大道芸的パフォーマンスをしていた京都出身の青年が(街頭に立っているといろんな人間に出合うものである。彼はゆくゆくは出版社を起こすことを狙っていて、得体の知れない様々な若者たちをパフォーマンスに招待していた。僕もよくその輪に加わり、みんなで車座になって広場に座り込み、話し合ったりしたものだった)中野のブロードウェイに自費出版の印刷を請け負っている業者がいることを教えてくれた。ただ原稿は手書きではダメで、自分で印刷したものを用意しなければならないという。

そこで兄から高額のワープロ機械を譲り受け(兄はよくこういう高額の買物をするのにそれを使いこなせない人間であった)、自分で原稿を印刷しようとした。その機械はデスクトップパソコンを小ぶりにしたぐらいの大きさがあり、当時最先端の機能があると謳っていたが、今のワードのような自由なレイアウトは何もできず、ただ文字を打ち込むだけで今でいえばメモ帳程度の機能しかなかった。ただこの一台で印刷もできたのである。文章を打ち込み、専用のインクを入れ、印刷ボタンを押すとカタカタとタイプライターみたいに文字が印刷されてゆき、一枚分刷りあがる、というものだった。
これを使って『ふたつにしてひとつのもの』200ページをタイピングして印刷したのだが、たいへんな苦労だったことを覚えている。タイピングがしづらい上に印刷ミスもたびたびあり、へとへとボロボロになって印刷作業に悪戦苦闘した。

ようやく印刷作業が終わり立派に印字された原稿ができると、さっそく中野のブロードウェイへ行ってその一角にある小さな印刷業者を訪ねた。そこで原稿を製本化してもらったのだが、文字通り本の形にしただけで、デザインや装丁など何もないまったくシンプルなものだった。表紙の色は選べるとのことだったのでゴッホの黄色にしてもらった。200部を作って、10万円だったが、当時の僕にはその金もなくて母に頼んで出してもらった。しばらくして段ボール一箱分の製本化された本が届いた。文庫本より少し大き目の、真新しい黄色い表紙の『ふたつにしてひとつのもの』を目にしたときは、シンプルを極めた本とはいえ、さすがに嬉しかった。

電子同人雑誌の可能性 21 「反外国主義運動と同人雑誌的活動」

2016-08-21 18:19:54 | 日本文学の革命
当時外国主義は絶対的な権威を持っていたが、しかし冷戦後の時代もう役割を終えて時代遅れになり、バブルの狂宴を経て内面的にも腐臭を放つほどに退廃していた。しかも自浄能力も失くし、ステレオタイプに外国文明崇拝を自他に強制するばかりだった。そしてその頃外国主義の腐敗と自浄能力の無さをテコにして、新たな国粋主義と国家主義が台頭しようとしていた。どうしようもないほど腐敗し国民の信望を失っていた外国主義を取り締まることで、自らが外国主義に取って代わり、権力的地位に君臨しようとしたのである。

これは戦前の日本で起きたことと同じ事態だった。またもや日本は戦前と同じ軌道を歩もうとしている。これを防ぐためには国粋主義者たちにやられる前に、国粋主義者とは“別の力”で―国粋主義とも外国主義とも異なる第三の道を切り開こうとする者たちの力で、外国主義を今ここで打ち壊してしまう必要がある(外国主義自体は、よく神話に出て来る竜のように、何度首を切り落とそうが時代時代に蘇ってくるものではあるが…)。そのようにして未来へ向かう道を、真に新しい日本文化を築いてゆく道を守り抜かなければならない !
と当時の僕の心境はざっとこの通りのものだった。

しかし今回戦前の同人雑誌をあれこれ書いていて、僕もまた戦前の同人雑誌の伝統を知らず知らずに生きていたことに気づかされた。戦前の同人雑誌の若者たちもまた、同じような熱い情熱に駆られ(その内容はそれぞれ様々だろうが)、その情熱のためなら社会的な権威にも捨て身で挑戦し、ドンキホーテ的な無謀とも見える行為に乗り出して行ったのである。
そして僕もまたこの運動の中で、桑田佳祐や中島みゆきやミスターチルドレンといった、同じ志ざしを持ち、全く同じことをしようとしている仲間たちと出会うことができた(残念ながら文学関係者には仲間を見い出すことができなかった。賞取りシステムで徹底的に骨抜きにされてしまったのだろう)。彼らによって励まされ、勇気づけられながら、自分でもこの道を歩み抜いてやろうと頑張り続けることができた。
また師事する師も見い出した。夏目漱石をはじめとする昔の日本文学者の群像である。彼らは皆故人であるが、彼らの志ざしは今でも残り、それを継承し実現してゆくことが僕の人生の使命だと覚悟を決めた。

戦前の同人雑誌の若者たちは、自分たちの理想と情熱だけを頼りに無我夢中で彼らの行為に乗り出していって、驚くべきことにそれを実際に実現させていったのだが、この「反外国主義運動」(「日本文学の革命」運動とも「新しい日本文学」の建設運動とも言ってもいい)も実際に実現できそうだ。桑田佳祐がいま現在も孤軍奮闘で戦い続けているように、この運動は今も継続中で結果は出ていず「答えは風に吹かれている(『大河の一滴』)」。たしかに、外国主義とも国粋主義とも異なる第三の道を切り開くことは、困難を極める行為である。しかし解決策はすでに見い出されている。それは「日本文学の復活」である(桑田佳祐や中島みゆきが日本文学に注目して自ら実践したように、宮崎駿が『風立ちぬ』で日本文学の復活を象徴的に実現させたように、多くの人々がもう気づき始めているのである)。日本文学は今、『明暗』と『文学論』という夏目漱石が未完成のまま残した未完成地点の前で、それ以上前進することができず、発展を止めているのである(その地点でまさに“立ち往生”しようとしているのである)。この未完成部分を完成させたとき、桑田佳祐の言う“奇跡のドア”が開かれ、広大な世界へと続く道が開かれるのである。そのとき日本文学の真の発展が再開し、外国主義や国粋主義を止揚した新しい日本文化が築かれてゆき、新たな広大な新世界が日本の前に開けてゆくのである。

電子同人雑誌の可能性 20 「インターネットと同人雑誌の復活」

2016-08-21 18:18:00 | 日本文学の革命
しかし今日、同人雑誌が復活する条件が再び整ってきたのである。新たな出版技術が登場し、誰もがやろうと思えば自分の力で出版活動を行うことができるようになったのだ。戦後長い間、出版活動といえば出版社という会社組織が独占的に行ってきたのだが、それを資本も何も持たない個人が、自由に自主的に、手作り手弁当で―まさにかつての同人雑誌のように―しかも最新技術を駆使して、行えるようになったのである。コンピュータとインターネットがそれを可能にしたのである。

コンピュータやインターネットが日本で普及し始めたのは1995年からだが、それ以前の個人的な出版活動はどのような状態だったのか。ちょっと思い出話をしてみたい。

僕は1994年の夏に「反外国主義運動」というものを始めた。「外国主義はもう時代遅れです」というプラカードを掲げて、当時の外国主義の中心地渋谷のハチ公広場を根城に、街を練り歩いたり、辻説法みたいなことをして、街頭活動を開始したのである。大勢の人々が行き交うスクランブル交差点の前に何時間もプラカードを掲げて立ったりして、なんなら渋谷の名物男になってもいいとさえ思っていた。ここは多くのテレビカメラが取材にやって来る所なので、それも狙いの一つだった。しかし僕にカメラを向けようとする取材カメラはなかった。あるときADみたいなカメラマンが僕にカメラを向けたところ、その横のディレクターらしき男が「向けるな!」とばかりにカメラの向きを手で押し下げたのを覚えている。ただNHKのカメラだけが遠くの方から僕のことを撮っていたが。


電子同人雑誌の可能性 19 「同人雑誌の活躍と衰退」

2016-08-15 04:02:45 | 日本文学の革命
しかし同人雑誌はその後、冬の時代を迎えることになる。権力を握った軍部が同人雑誌を弾圧したからである。特にプロレタリア文学派などは徹底的に弾圧され、片っ端から牢屋送りにされたほどだ。改造社などは社員が拷問を受けてつぶされてしまった。それでも同人雑誌は苦しい時代を耐えて文学活動を続け、昭和10年代には「文芸復興」の高まりを見せ、戦前の日本文学最後の光芒を輝かせた。

戦後になり軍部が滅びると、同人雑誌は息を吹き返す。大正時代の同人雑誌的作家たちはふたたび盛んな執筆を始めた。坂口安吾や太宰治の無頼派が焼け跡の時代に世の光となった。同人雑誌『近代文学』が戦後派文学を次々と世に送り出した。同人雑誌が一斉に活躍し、ふたたび日本の文化を前へ押し進めていったのである。

しかし1956年に賞取りシステムが稼働し始めると、同人雑誌は次第に衰退してゆくことになった。賞を取ることが作家になる第一の条件となり、かつての同人雑誌の権威をものともしない溌剌とした活動は影をひそめていった。現在では同人雑誌はコミケの代名詞となり、本来の同人雑誌はすっかり衰退してしまった。そしてそのネットワークも消えてしまった。

戦後の同人雑誌の衰退にはいくつもの原因がある。
まず一つは、戦後に入ると雑誌技術や印刷技術が高度化して、同人雑誌仲間の手作りでは間に合わなくなったことがある。当時は写真一つ撮るにもプロのカメラマンが必要とされ、同人雑誌の素人たちには手が届かなかった。
また時代が大量生産大量消費の経済システムの時代となり、出版業界もそれに対応することが強いられ、同人雑誌の貧乏青年たちの生産―流通―販売システムなど児戯に類するものになってしまった。
また時代が大衆社会になったことも同人雑誌の衰退をもたらした。同人雑誌とそのネットワークは少人数の集まりだからこそ可能だったのであり、数十万数百万数千万にも達する大衆相手にはネットワークの張りようがなかったのである。
そして最後に同人雑誌の衰退を決定づけたのは日本文学の衰退である。日本文学は三島由紀夫以降、本質的発展をしなくなり、長い停滞期に入ったのである。同人雑誌の中核的精神であった文化発展の情熱が急速に失われ、空洞化していったのである。同人雑誌的若者の意気軒昂な理想は、実態を伴わない空虚な大言壮語になり、鼻につく青二才の高慢に堕していった。本当の文化発展はマンガやアニメ、ニューミュージックの分野に移り、時代に敏感な若者たちはその分野に移動していった。

そして今日、同人雑誌とそのネットワークは見る影もなく失われて、文学界には賞取りシステムという一つのシステムだけが残り、虚しく機械的に稼働を続けているのである。
(続く)

電子同人雑誌の可能性 18 「巨大で強力な同人雑誌のネットワーク」

2016-08-15 04:00:31 | 日本文学の革命
同人雑誌のネットワークはこのように拡大してゆき、同人内で深まり、同人間に拡大してゆき、ついには文学界のトップ文化界の頂点にある「文壇」まで抱合するようになったのである。一国の文化界も抱合するような巨大なネットワークとなったのであった。

この同人雑誌の巨大なネットワークが戦前の日本文学のたくましい発展を支えたのである。
このネットワークは未来を切り拓こうとする意気軒昂な若者たちの、どんな前衛的手法も、どんな斬新な発想も、どんな大胆な行動も、受け入れる素地を構造的に持っていた。普通だったら押しつぶされるか干されてしまう若者たちの大胆な理想や行動も、ここでは誰はばかることなく自由に主張でき、協力者も得られ、十分な活動の機会が与えられたのである。

また彼らはこのネットワークの中で成長してゆくこともできた。同人内で切磋琢磨し、同人間で広い世界と交流し、「文壇」の先輩たちの教導と励ましを得て、人間的に成長し、創作能力を高めてゆくことができたのである。またこのネットワークによって仲間たちや師から精神的物質的社会的な様々な援助を得て、自分が置かれた辛い境遇に打ち克ち、前へ前へと進んでゆく勇気も得られたのである。

またこのネットワークは高度な作家発掘機能も有していた。何か優れた作品があったとき、誰か有望な作家が現われたとき、この多元的で縦横無尽なネットワークはただちにそれを感知し、具眼の士にそれを提供し、すぐさまネットワークの上層部まで引き上げられたのである。一部の人間の思惑によって黙殺されたり歪められたりすることはなかったと言ってもいいだろう。いい作品や文学的成果を見つけたら、たとえ相手が岩手の田舎にいようが(宮沢賢治)、山口の平凡な主婦だろうが(金子みすず)、どちらも死んでいようが、お構いなしに彼らの作品を発掘し、広い社会に伝えていったのである。

このネットワークが生み出した作家は、何か文学以外の力が外から与えてきた作家ではなくて、このネットワークの同人仲間たちの代表という側面を持っている。この同人仲間のネットワークこそが、この作家を育て、鍛え、発見し、ネットワークの上層部まで押し上げて、彼の作家活動を可能にしたのである。彼は同人雑誌的若者たちの代表であり、成果であり、彼らの抱いている理想を実現してくれる存在なのである。

このネットワークが独立的存在だったことも重要である。彼ら同人雑誌のネットワークは明治大正の時代には政治的支配を受けることはなく、その間歴史に残るような文化発展を達成したのだった。賞取りシステムとは対称的に経済的支配を受けることもなかった。彼ら同人雑誌的若者は貧乏だったので、始めから金のないことを前提に彼らの組織とネットワークを構築してきたので、経済システムがなくても結構平気だったのである。実際このネットワークの内部だけでも、ワンセットの作家生活は可能だったのである。この内部で作品を書き、それを同人仲間たちに買ってもらい、カツカツの収入だろうがそれで生活して、また新たな作品に取りかかってゆく、という作家生活が可能だったのだ。戦前の私小説作家などはまさにそれで、彼らは作風上大衆受けする面白い作品を書くことができず、このような生活を強いられていたのである。しかし彼らは存外そういう生活に満足していて、金目当てに大衆受けする作品を書く作家は心底軽蔑していて、自分たちこそが本当に価値ある文学作品を作っているんだという強い自負心を持っていたのである。
この同人雑誌のネットワークは経済システムから独立していただけでなく、戦前の出版業界に関していえば経済システムの上に位置していたということができる。このネットワーク内で自主的に純粋文学的に生み出された諸作品こそが、先端的に一般社会の人々の文学的嗜好を切り開いたのであり、後に下請け的に出版社に回されて今日まで名作として読み継がれる作品を量産させたのである。

この同人雑誌のネットワークは、明治時代を経て大正時代において絶頂に達する。大正時代は日本文学の一つの黄金期であると同時に一大雑誌ブームが巻き起こった時代だった。数多くの同人雑誌が意気軒昂に活躍すると同時に様々な商業雑誌も成功を収め、雑誌によって時代が切り開かれて行ったのである。時の大権力者山県有朋も意気盛んな雑誌ブームを見て若き日維新の志士として活躍した頃のことを思い出したのか「自分も雑誌を作ってみたい」と漏らしたほどだった。同人雑誌とそのネットワークは文学創造機関、文化発展機関として巨大な力を発揮し、新しい日本文化の建設に大きな貢献をしたのであった。

電子同人雑誌の可能性 17 「文壇について」

2016-08-15 03:58:49 | 日本文学の革命
このように戦前の「文壇」は新進作家の発掘機能も果たしたのである。「文壇」の文学者たちは、彼ら自身が同人雑誌の出身者だったので、同人雑誌の動向に注目し、その中から現れるはずの新しい才能を見い出そうと努めていた。彼らは実践で鍛えられた具眼の士であり、どこからか新しい才能の噂を耳にするとすぐに自分の眼で確かめ、本当に有望だと判断したら迷わず抜擢した。彼らは流行や社会におもねることもしなかった。文学的に優れているかどうか、日本文学の発展に有望かどうか、それが第一の判断基準だった。

またこの発掘機能は多元的でもあった。漱石は芥川を見い出したが、島崎藤村のもとに行っていたらおそらく見い出されなかったろう。代わりに島崎藤村は彼の流派の自然主義に適合した作家なら見い出したことだろう。同様に森鷗外には森鷗外の好みがあり、永井荷風には永井荷風の選考基準があった。発掘機能は多元的であり、様々なタイプの作家が発掘される可能性があったのである。

さらにまた、この発掘機能は固定的なものでもなかった。戦国乱世のような当時の文学界では下剋上ということもしばしば起こったからである。従来の「文壇」のメンバーが下からの猛攻撃で一掃されるという事態もよく起こった。例としてプロレタリア文学をあげると、世界に社会主義の嵐が巻き起こり、それが日本にも押し寄せてきた昭和初年、同人雑誌の若者たちにプロレタリア文学が大ブームとなり、ついには既存の大正文壇を圧倒して、どの雑誌も今まで聞いたこともないプロレタリア作家たちで埋めつくされるという事態に至ったのである。
このような下剋上も含めて、この「文壇」の発掘機能はきわめて多元的可変的であったと言えるだろう。