そういう努力を重ねて、2000年に『日本文学の革命』というホームページを立ち上げた。これは当時権威にあぐらをかいたまま(当時はまだ日本文学には戦前から続いてきた権威が残っていたのである。今ではもうそれすら無くなったが)衰退してゆく日本文学を覚醒させ、復活させようとして掲げたものだった。しかしそれを聞いた『ネバーモア』の同人の女性が「そのタイトルはやめなさい!」と厳しく注意してきた。僕も強情だからそのまま通してしまったが、今思うと彼女の忠告は正しかったのである。「日本文学の革命」などという旗を掲げてしまったために、みんな恐がって近づいて来ないか、あるいは不遜な奴めと嘲笑うか、あるいは僕のことを全くの気違いと思うかだけで、広がりをもたらすことができなかったのである。実際に会うとそういう人物ではないことが分かるのだが、ネットは顔が見えない分そういう思い込みで決めつけられてしまうのだろう。
ただ同人雑誌的伝統でいえば、これは当たり前の行為だったのである。戦前の同人雑誌はどれもが「日本文学の革命」を掲げていたと言ってもいいぐらいなものであった。誰もが権威をものともしない意気軒昂な旗印を掲げて「俺がやる!」「俺にやらせろ!」と熱い情熱をたぎらせていたのである。ここでも僕は知らず知らずに同人雑誌的伝統を生きていたのであろう。
さて長々と思い出話を書いてしまったが、要するに言いたいことは、今日パソコンやインターネットを使えば誰もが簡単に出版活動を行えるようになったということである。立派な原稿を作ることもできるし、写真やイラストや動画まで利用できる。ネットを使えば大量の原稿をいくらでも流通させることができる。オンラインで書籍を買うサービスも当たり前のものになってきている。チラシや広告などの複雑な印刷物もネット注文で簡単にできるようになった。そのうち本の製造もネット注文で簡単にできるようになるだろう。
技術的には「誰もが出版活動を行える時代」が到来しているのである。別に出版活動を出版社が独占している必要はないのである。かつての同人雑誌の時代のように誰もが手作り手弁当で(しかも最新の技術を駆使して)雑誌や本を出版することが可能となっているのだ。
ではこのような技術的条件の上に立って同人雑誌の電子的復活が可能かどうかを考えてみよう。戦前の同人雑誌の興隆をもたらしたものは「志ざし―仲間たち―ネットワーク」であった。この条件は現代のコンピュータ・ネットワークで再現することができるだろうか。
(続く)
ただ同人雑誌的伝統でいえば、これは当たり前の行為だったのである。戦前の同人雑誌はどれもが「日本文学の革命」を掲げていたと言ってもいいぐらいなものであった。誰もが権威をものともしない意気軒昂な旗印を掲げて「俺がやる!」「俺にやらせろ!」と熱い情熱をたぎらせていたのである。ここでも僕は知らず知らずに同人雑誌的伝統を生きていたのであろう。
さて長々と思い出話を書いてしまったが、要するに言いたいことは、今日パソコンやインターネットを使えば誰もが簡単に出版活動を行えるようになったということである。立派な原稿を作ることもできるし、写真やイラストや動画まで利用できる。ネットを使えば大量の原稿をいくらでも流通させることができる。オンラインで書籍を買うサービスも当たり前のものになってきている。チラシや広告などの複雑な印刷物もネット注文で簡単にできるようになった。そのうち本の製造もネット注文で簡単にできるようになるだろう。
技術的には「誰もが出版活動を行える時代」が到来しているのである。別に出版活動を出版社が独占している必要はないのである。かつての同人雑誌の時代のように誰もが手作り手弁当で(しかも最新の技術を駆使して)雑誌や本を出版することが可能となっているのだ。
ではこのような技術的条件の上に立って同人雑誌の電子的復活が可能かどうかを考えてみよう。戦前の同人雑誌の興隆をもたらしたものは「志ざし―仲間たち―ネットワーク」であった。この条件は現代のコンピュータ・ネットワークで再現することができるだろうか。
(続く)