「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 19 「同人雑誌の活躍と衰退」

2016-08-15 04:02:45 | 日本文学の革命
しかし同人雑誌はその後、冬の時代を迎えることになる。権力を握った軍部が同人雑誌を弾圧したからである。特にプロレタリア文学派などは徹底的に弾圧され、片っ端から牢屋送りにされたほどだ。改造社などは社員が拷問を受けてつぶされてしまった。それでも同人雑誌は苦しい時代を耐えて文学活動を続け、昭和10年代には「文芸復興」の高まりを見せ、戦前の日本文学最後の光芒を輝かせた。

戦後になり軍部が滅びると、同人雑誌は息を吹き返す。大正時代の同人雑誌的作家たちはふたたび盛んな執筆を始めた。坂口安吾や太宰治の無頼派が焼け跡の時代に世の光となった。同人雑誌『近代文学』が戦後派文学を次々と世に送り出した。同人雑誌が一斉に活躍し、ふたたび日本の文化を前へ押し進めていったのである。

しかし1956年に賞取りシステムが稼働し始めると、同人雑誌は次第に衰退してゆくことになった。賞を取ることが作家になる第一の条件となり、かつての同人雑誌の権威をものともしない溌剌とした活動は影をひそめていった。現在では同人雑誌はコミケの代名詞となり、本来の同人雑誌はすっかり衰退してしまった。そしてそのネットワークも消えてしまった。

戦後の同人雑誌の衰退にはいくつもの原因がある。
まず一つは、戦後に入ると雑誌技術や印刷技術が高度化して、同人雑誌仲間の手作りでは間に合わなくなったことがある。当時は写真一つ撮るにもプロのカメラマンが必要とされ、同人雑誌の素人たちには手が届かなかった。
また時代が大量生産大量消費の経済システムの時代となり、出版業界もそれに対応することが強いられ、同人雑誌の貧乏青年たちの生産―流通―販売システムなど児戯に類するものになってしまった。
また時代が大衆社会になったことも同人雑誌の衰退をもたらした。同人雑誌とそのネットワークは少人数の集まりだからこそ可能だったのであり、数十万数百万数千万にも達する大衆相手にはネットワークの張りようがなかったのである。
そして最後に同人雑誌の衰退を決定づけたのは日本文学の衰退である。日本文学は三島由紀夫以降、本質的発展をしなくなり、長い停滞期に入ったのである。同人雑誌の中核的精神であった文化発展の情熱が急速に失われ、空洞化していったのである。同人雑誌的若者の意気軒昂な理想は、実態を伴わない空虚な大言壮語になり、鼻につく青二才の高慢に堕していった。本当の文化発展はマンガやアニメ、ニューミュージックの分野に移り、時代に敏感な若者たちはその分野に移動していった。

そして今日、同人雑誌とそのネットワークは見る影もなく失われて、文学界には賞取りシステムという一つのシステムだけが残り、虚しく機械的に稼働を続けているのである。
(続く)

電子同人雑誌の可能性 18 「巨大で強力な同人雑誌のネットワーク」

2016-08-15 04:00:31 | 日本文学の革命
同人雑誌のネットワークはこのように拡大してゆき、同人内で深まり、同人間に拡大してゆき、ついには文学界のトップ文化界の頂点にある「文壇」まで抱合するようになったのである。一国の文化界も抱合するような巨大なネットワークとなったのであった。

この同人雑誌の巨大なネットワークが戦前の日本文学のたくましい発展を支えたのである。
このネットワークは未来を切り拓こうとする意気軒昂な若者たちの、どんな前衛的手法も、どんな斬新な発想も、どんな大胆な行動も、受け入れる素地を構造的に持っていた。普通だったら押しつぶされるか干されてしまう若者たちの大胆な理想や行動も、ここでは誰はばかることなく自由に主張でき、協力者も得られ、十分な活動の機会が与えられたのである。

また彼らはこのネットワークの中で成長してゆくこともできた。同人内で切磋琢磨し、同人間で広い世界と交流し、「文壇」の先輩たちの教導と励ましを得て、人間的に成長し、創作能力を高めてゆくことができたのである。またこのネットワークによって仲間たちや師から精神的物質的社会的な様々な援助を得て、自分が置かれた辛い境遇に打ち克ち、前へ前へと進んでゆく勇気も得られたのである。

またこのネットワークは高度な作家発掘機能も有していた。何か優れた作品があったとき、誰か有望な作家が現われたとき、この多元的で縦横無尽なネットワークはただちにそれを感知し、具眼の士にそれを提供し、すぐさまネットワークの上層部まで引き上げられたのである。一部の人間の思惑によって黙殺されたり歪められたりすることはなかったと言ってもいいだろう。いい作品や文学的成果を見つけたら、たとえ相手が岩手の田舎にいようが(宮沢賢治)、山口の平凡な主婦だろうが(金子みすず)、どちらも死んでいようが、お構いなしに彼らの作品を発掘し、広い社会に伝えていったのである。

このネットワークが生み出した作家は、何か文学以外の力が外から与えてきた作家ではなくて、このネットワークの同人仲間たちの代表という側面を持っている。この同人仲間のネットワークこそが、この作家を育て、鍛え、発見し、ネットワークの上層部まで押し上げて、彼の作家活動を可能にしたのである。彼は同人雑誌的若者たちの代表であり、成果であり、彼らの抱いている理想を実現してくれる存在なのである。

このネットワークが独立的存在だったことも重要である。彼ら同人雑誌のネットワークは明治大正の時代には政治的支配を受けることはなく、その間歴史に残るような文化発展を達成したのだった。賞取りシステムとは対称的に経済的支配を受けることもなかった。彼ら同人雑誌的若者は貧乏だったので、始めから金のないことを前提に彼らの組織とネットワークを構築してきたので、経済システムがなくても結構平気だったのである。実際このネットワークの内部だけでも、ワンセットの作家生活は可能だったのである。この内部で作品を書き、それを同人仲間たちに買ってもらい、カツカツの収入だろうがそれで生活して、また新たな作品に取りかかってゆく、という作家生活が可能だったのだ。戦前の私小説作家などはまさにそれで、彼らは作風上大衆受けする面白い作品を書くことができず、このような生活を強いられていたのである。しかし彼らは存外そういう生活に満足していて、金目当てに大衆受けする作品を書く作家は心底軽蔑していて、自分たちこそが本当に価値ある文学作品を作っているんだという強い自負心を持っていたのである。
この同人雑誌のネットワークは経済システムから独立していただけでなく、戦前の出版業界に関していえば経済システムの上に位置していたということができる。このネットワーク内で自主的に純粋文学的に生み出された諸作品こそが、先端的に一般社会の人々の文学的嗜好を切り開いたのであり、後に下請け的に出版社に回されて今日まで名作として読み継がれる作品を量産させたのである。

この同人雑誌のネットワークは、明治時代を経て大正時代において絶頂に達する。大正時代は日本文学の一つの黄金期であると同時に一大雑誌ブームが巻き起こった時代だった。数多くの同人雑誌が意気軒昂に活躍すると同時に様々な商業雑誌も成功を収め、雑誌によって時代が切り開かれて行ったのである。時の大権力者山県有朋も意気盛んな雑誌ブームを見て若き日維新の志士として活躍した頃のことを思い出したのか「自分も雑誌を作ってみたい」と漏らしたほどだった。同人雑誌とそのネットワークは文学創造機関、文化発展機関として巨大な力を発揮し、新しい日本文化の建設に大きな貢献をしたのであった。

電子同人雑誌の可能性 17 「文壇について」

2016-08-15 03:58:49 | 日本文学の革命
このように戦前の「文壇」は新進作家の発掘機能も果たしたのである。「文壇」の文学者たちは、彼ら自身が同人雑誌の出身者だったので、同人雑誌の動向に注目し、その中から現れるはずの新しい才能を見い出そうと努めていた。彼らは実践で鍛えられた具眼の士であり、どこからか新しい才能の噂を耳にするとすぐに自分の眼で確かめ、本当に有望だと判断したら迷わず抜擢した。彼らは流行や社会におもねることもしなかった。文学的に優れているかどうか、日本文学の発展に有望かどうか、それが第一の判断基準だった。

またこの発掘機能は多元的でもあった。漱石は芥川を見い出したが、島崎藤村のもとに行っていたらおそらく見い出されなかったろう。代わりに島崎藤村は彼の流派の自然主義に適合した作家なら見い出したことだろう。同様に森鷗外には森鷗外の好みがあり、永井荷風には永井荷風の選考基準があった。発掘機能は多元的であり、様々なタイプの作家が発掘される可能性があったのである。

さらにまた、この発掘機能は固定的なものでもなかった。戦国乱世のような当時の文学界では下剋上ということもしばしば起こったからである。従来の「文壇」のメンバーが下からの猛攻撃で一掃されるという事態もよく起こった。例としてプロレタリア文学をあげると、世界に社会主義の嵐が巻き起こり、それが日本にも押し寄せてきた昭和初年、同人雑誌の若者たちにプロレタリア文学が大ブームとなり、ついには既存の大正文壇を圧倒して、どの雑誌も今まで聞いたこともないプロレタリア作家たちで埋めつくされるという事態に至ったのである。
このような下剋上も含めて、この「文壇」の発掘機能はきわめて多元的可変的であったと言えるだろう。

電子同人雑誌の可能性 16 「文壇について」

2016-08-15 03:56:02 | 日本文学の革命
「文壇」の文学者たちも文化の頂点、社会の表舞台で活躍する人物だったが、今日のマスコミ的スターとは大きく異なる状況を生きていた。彼らは活発にお互い同士交流し合っていたのである。しかも人間的な魂の交流をし合っていたのである。「文壇」には実は組織的実態などは何もなく、文学者たちがお互い同士活発に、自発的に交流し合っていたというのがその唯一の実態なのであった。彼ら有名作家たちは好んで文壇バーに出入りして、お互い酒を酌み交わし、文学談義に花を咲かせていた。彼らは何かにつけて集まっては、議論したり、勉強したり、遊んだりしていた。彼らは訪問客も大好きであった。お互い同士の家を行き来したり、後輩の文学青年が緊張した面持ちで彼の客間にやって来ると、気さくに対応し、すぐに「キミ・ボク」の関係を築いて交流を楽しんだ。

これは同人雑誌的若者たちの交流と基本的に変わらないものである。そう、実は彼もかつては同人雑誌的若者の一人だったのであり、その内で運良く成功した者だったのである。彼は文学界の頂点に立ち、年を取った今でも、無名の若者だった頃の生き方が忘れられず、それを今でも繰り返しているのである。

「文壇」の文学者たちは文学界の頂点に立った者たちだったが、しかし彼らの生活は基本的に昔のままだった。漱石は有名作家になった後もこれまでと変わらす普通に銭湯通いをし、近所の団子屋で団子を食っていた。森鷗外も高い文名を持ちつつ相変わらず役所勤めを黙々とこなし、一般客と一緒に普通に電車に乗って通勤していた。彼らの交流も変わらなかったのである。彼らは様々な交流を楽しみ、様々な人物に触れ合うことで、自らの魂を成長させ、それを創作に活用していったのである。彼らは彼らを慕ってやって来る若者たちとも積極的に交流した。彼らももともとはこの若者たちと同じように同人雑誌の同人だったのであり、その活動を通して現在の地位を築いてきたのであり、いわば世代を超えた仲間なのであった。彼らは後輩の若者たちのために親身になって尽くし、彼らのために様々な出世の機会も与えた。漱石も彼のもとに集まった若者たちのために尽力し、教導するのはもちろん、貧窮に苦しんでいる者には無償で金銭を援助し、また新聞という当時唯一の全国的メディア―同人雑誌の若者たちには晴れ舞台に執筆する機会を多くの者に提供したのだった。そんな中彼はついに彼の後継者に成り得る若者を発見する。芥川龍之介が彼の木曜会に来たのである。彼は芥川の作品の価値を認め、激賞する。これを契機に芥川は一挙に文壇の頂点に引き上げられ、彼の創作活動を開始することになったのである。

電子同人雑誌の可能性 15 「文壇について」

2016-08-15 03:52:03 | 日本文学の革命
最後に「文壇」を見てみよう。
「文壇」は一世代前まではまだかすかに命脈を保っていたが、今はほぼ絶滅したと言っていい存在であるが、当時のそれは「文学者の交流団体」とでもいったものであった。ただここで言う文学者とは、これまで書いてきたような同人雑誌に集まった無名の作家たちのことではない。功なり名を遂げて文学界のトップに立った有名小説家や権威のある評論家や文化人のことである。彼らは今でいえばマスコミのトップで華々しく輝くスター的存在と言えるだろう。では彼らの集まり「文壇」とはマスコミ的スターの集まり「芸能界」みたいなものなのかというと、この両者には決定的ともいえる違いがあるのだ。

今日のマスコミ的スターが共通して持っている特徴が「人間的孤独」である。彼らはマスコミ的スターになったその瞬間から、絶望的なほどの「人間的孤独」に追い込まれるのである。それはビートルズが「ZOO(動物園の檻)」と呼んだものであり、マスコミ的スターはスターになったそのときからこの「ZOO」という目に見えない檻に閉じ込められ、一切の人間的交流を奪われた状態で、檻の中で飼われ、有象無象の大衆に見物される存在になるのだ。

彼がマスコミ的スターになると、もう誰も彼を一個の人間として扱わなくなる。彼はアイドルであり偶像であり崇められる存在であり、周りの人間は誰も彼を無視したり邪見に扱ったり冷たくあしらったりすることができなくなる。彼を目にした時は、ご来光を仰ぎ見たかのように、珍しい生物に行き会ったかのように、心を動転させて興奮しなければならず、熱狂的にかぶりつくことはできても、人間同士心を開いて酒を酌み交わしあったり、暖かい友情を示したり、心からの魂の交流をしたりと、そんなことは全くできなくなる。喧嘩も反論もできず、彼の前では常に賛辞や甘言しか言えないのである。彼はもう街すら自由に歩けなくなる。もし見つかったら、パニックを起こした群衆が彼の周りに容赦なく押しかけてくるからである。人間的交流を断たれ、家の中に閉じ込められ(一応豪邸だが檻みたいなものである)、ただ彼にはマスコミの前で立ち回る操り人形の役だけが与えられることになる。唯一彼を人間として扱ってくれるのは、事務所の人間か同じ芸能人ぐらいのものだが、しかし彼らは彼を商品か利権として扱うのである。

こんな状況ではスターになったが最後、彼はもう人間的に成長する機会を奪われてしまうのである。芸能人にテレビカメラの前を離れて実際に会うと、驚くほど人間的にからっぽな者が多いという。彼らはマスコミ的人形として扱われ続けた結果、自分の人間性を成長させる機会を失ってしまったのである。