「日本文学の革命」の日々

「日本文学の革命」というホームページを出してます。「日本文学の革命」で検索すれば出てきますので、見てください

電子同人雑誌の可能性 14 「同人雑誌のネットワーク」

2016-08-14 15:50:07 | 日本文学の革命
一つの同人雑誌に所属していることはネットワークを広げる上で大きな効果を発揮した。その同人雑誌を見れば、その人物がどういう人物なのか、どういう理想を持ちどういう活動をしてどういう作品を書いてきたか、相手によく分かり、交友すべき人物かどうか判断がつくからである。有名な同人雑誌に所属しているということは、ネットワークを広げる上で実に強力であった。三島由紀夫は戦後間もなく『人間』という雑誌に寄稿する機会を得た。この『人間』は鎌倉で戦火を逃れていた川端康成や久米正雄などの文壇の大御所が結成した同人雑誌で、そこに作品を載せられたことで以後彼は「『人間』に小説を書いた三島君」という肩書を得て文壇でのネットワークを大きく広げる機会を得たのである。

同人雑誌のメンバーは様々な方向にネットワークを広げてゆき、横の連携を強めていったが、彼らは同時に上の方向にもネットワークを伸ばしていった。彼らはこれはと思う文壇の師や先輩を訪ね、彼らと関係を築いていったのである。
今日 無名の若者たちが有名作家や文学界のトップと実際に会い、人間的交流をするということはほとんど不可能なことである。しかし当時は割合簡単なことで、友達の友達的な紹介があれば簡単に会えたのである。またここでも同人雑誌が効果を発揮した。彼らは会う前に自己紹介的に自分たちの同人雑誌を送りつけていたのである。それを読んだ有名作家が「いいものを書く」と判断した同人作家には彼の方から「会いたい」と申し込んだものだった。当時の有名作家夏目漱石が毎週木曜日に開いていた知的サロン的交流会「木曜会」には、無名の若者たちも数多く出席したものであった。多くの作家や文学者たちが当時は同じようなことをしていた。無名の同人作家たちはこの好機を捕え、彼らを師や先輩として仰ぎ、彼らとの強いネットワークを築いていったのである。

このように多種多様な同人雑誌が入り乱れ、それぞれが独自に気焔を吐いて活動し、同時に相互が上下左右多彩なネットワークを築いて動いてゆく様は、まさに文化運動の溌剌としたカオス(混沌)であった。そこではどんな主張でも許されるのであり(日本文化を発展させるものであれば)、どんな一元的支配も受けることなく、文化や思想の自由競争が行われたのである。同時にそこは英雄豪傑たちが闊歩する戦国乱世さながらの舞台であり、天下の覇権をめぐって合従連衡が行われ、壮大な文化戦争が戦われたのであった。自然主義と夏目漱石は火花を散らして激突した。プロレタリア文学と芸術至上主義派も相互に相容れずに対決した。私小説派と近代文学派も文壇の覇権をめぐって争い合った。そのようなカオスと戦乱の中、同人雑誌の若者たちは自分たちの同人内で文学の研鑽に励み、様々な人物や団体と交流を重ねて見識を磨き、師や先輩を見つけては彼らの門を叩いて彼らに師事し、自分自身の文学能力を高めてゆき、自ら世に出て自らの理想を実現する機会を虎視眈々と狙っていたのである。
(続く)

電子同人雑誌の可能性 13 「同人雑誌のネットワーク」

2016-08-14 15:48:26 | 日本文学の革命
次いで「同人間」を見てみよう。
同人雑誌はある理想を社会に向けて掲げて、その実現を目指して活動してゆく団体だと書いたが、その理想の実現のために同人雑誌は拡大しようという傾向を持っている。できるだけ多くの人に雑誌を売りたいし、できるだけ多くの人に自分たちの活動を知って欲しいのである。しかしその拡大の仕方は不特定多数の消費者に向かってものを大量にばら撒くという経済的拡大とは異なっていた。彼らは個人的ネットワークを広げ、コミュニケーションを重ねてゆくという形で拡大していったのである。

明治から大正になる頃にはたくさんの同人雑誌が活動するようになってきた。フランスの自然主義文学を旗印にして活動するグループ。トルストイを信奉するグループ。ドストエフスキーの方がいいとするグループ。前衛文学のグループ。耽美派のグループ。和歌や俳句や現代詩のグループ。童話専門の同人雑誌。あるいは日本の古典美を大切にしようとする同人雑誌。井原西鶴を現代に蘇らせようとした同人雑誌もあったし、漢文の近代化に努めた人物もいた。社会運動系の雑誌もたくさん作られたし、哲学系や学問系や科学系の雑誌も多かった。美術系芸術系のグループも数多く活動していた。政治的結社や宗教団体もあった。

そのように有名無名多種多彩な雑誌やグループが活動する中、同人雑誌のメンバーたちはそれぞれ思い思いに自分のネットワークを拡大していったのである。機会はいくらでもあった。彼らが日頃行っている出版活動自体がすでに対社会的アピールでありネットワークを広げる行為であった。また同じく日頃行っている交流活動も他の同人雑誌のメンバーと知り合う機会となった。友人に紹介される、師や先輩から教えられる、文壇バーで知り合う、飲み会で出会って意気投合する、などどいうことは日常茶飯事だった。他の同人雑誌から雑誌が送られてくる、あるいはこちらから同人雑誌を送りつける、ということもよく行われた。ある同人雑誌を購読するとうことは、単にその雑誌を読むだけでなくその雑誌を作っている人々と具体的なコミュニケーション関係に入ることでもある(というのは会おうと思えばいつでも彼らに会いに行けたし、彼らの方でも来訪者を歓迎したからである)。同人雑誌の購読や交換はそのままネットワークの拡大となったのである。

電子同人雑誌の可能性 12 「同人雑誌のネットワーク」

2016-08-14 15:34:21 | 日本文学の革命
同人雑誌の本質を成す精神―魂の交流と、切磋琢磨による魂の向上と、創作によるその発現。それは時として雑誌の枠を飛び出してしまうこともあった。
最も成功した同人雑誌として有名なのが『白樺』で、同人たちも終生仲が良かったが、彼らは同人雑誌を飛び越えた活動まで行った。同人たちが千葉県の我孫子に移り住み(僕も行ったことがあるが、美しい土地であった。ことに夕暮れの美しさは最高で、別世界に来たみたいだった)、そこに「芸術家村」を築いたのである。彼らはそこで近隣に暮らし、互いに行き来して交流を深め、互いに助け合い切磋琢磨しつつ、文学に美術に芸術にと創作に励んだのである。この種の「文士村」は戦前は我孫子以外にも各地に出現した。『白樺』のリーダー武者小路実篤はさらに発展した行動を起こす。宮崎県に「新しき村」を作り、同志を募って集団移住したのである。そこで彼らは土地を開墾し農業を営み、その上に立って芸術活動までした。それによって彼は、大地に根ざし、生産活動を行い、その上に立った文化まで築くというトルストイ的理想を実現し、また目の前に押し寄せる脅威である共産主義とその機械的教条的非文化性をも乗り越えようとしたのである。同じころ活動していた宮沢賢治の羅須地人協会も、農業活動をしつつ芸術も愛好するという団体で、武者と同じような志ざしがあったのかも知れない。同人雑誌は「芸術家村」を経て、経済活動をも抱合した一つの地域団体にまで成ったのである。

ここまで同人雑誌のいい面ばかり書いてきたきらいがあるが、もちろん人間の集まる団体だから悪い面もある。たとえば同人同士は仲のいい交流や助け合いばかりしていたわけではなく、嫉妬、憎しみ、内紛、分裂、内ゲバまがいの事も繰り返していたのである。武者小路の「新しき村」も現実の壁にはねかえされて失敗したし、羅須地人協会も数年で消滅した。『白樺』の同人たちも仲が良かっただけではなかった。その創設の頃、武者小路が『白樺』を自分の政治活動の為に利用していると思った志賀直哉は(たしかにそういう面もあったのである)、一時武者に対して「兇行」も考えたほどであった。その後二人が涙を流して和解し合うことで決着は着いたが。芥川龍之介の同人だった菊池寛は終生芥川に対してコンプレックスを抱き続けていた。芥川のおかげで世に出れ、また芥川に裏方的に協力もしたが、自分よりはるかに才能豊かな芥川にコンプレックスを抱き、また芥川に対して全くの俗物として生きてきた自分の人生にも引け目を感じていた。芥川の死後、彼は商業的に大成功を収め、金にものを言わせて多数の文学青年を配下に従わせ、文壇のドンとも崇められ、中国人美女の妾も持ってと、成功者の人生を歩んだ。しかしそれでも彼の芥川に対するコンプレックスは消えることなく、内面的には空疎な生活を送ったのである。彼が作ったのが「芥川賞」である。それは日本文学の存続に役立ったものの、同時に経済による文学支配ももたらした。まさに菊池寛的なものなのである。
その他にも同人雑誌のネットワークが開かれていることをいいことに、仲間のふりをして巧みに近づいて権勢拡大に利用したり足をすくったりという「文壇政治」が横行したり(これは川端康成が実にうまかった)、またこれは戦後顕著になったものだが、同人雑誌の権威をものともしない風潮が、青二才の鼻につく高慢、空疎な大言壮語に堕して、同人雑誌の衰退を招いたこともあった。
しかしこのようなマイナス面を考慮に入れても、戦前の同人雑誌は魂の交流―成長―発現機関として機能し、日本文化の偉大な発展に多大の寄与をしたのだった。

電子同人雑誌の可能性 11 「同人雑誌のネットワーク」

2016-08-14 15:32:54 | 日本文学の革命
このように様々に交流を重ねていた同人雑誌の仲間たちであったが、その交流の中心に常にあったのは「創作」であった。彼らが議論し合うのも勉強し合うのも切磋琢磨し合うのもこのためである。飲み合うのも遊び合うのも―遊びの要素が多分に入っているとはいえ、基本的には「創作」のためである。彼らは同人たちとそのネットワークを通して、様々な経験を積み、自分の趣味と魂を養成してゆき、創作能力を向上させていったのだ。

「創作」とはそれを作った人間の魂の根源をさらけ出す行為である。同人雑誌に集まった仲間たちは、互いの創作と発表を通して互いに魂の根源をさらけ出し合う関係にあったと言える。儀礼的な人間関係、社会組織的な人間関係には希薄な、魂の真の交流を求める人間関係がそこにはあったのである。
もちろん魂の真の交流など、めったにできる訳がない。一人の人間の魂の根源にあるものなど、めったに理解できるものではない。本当に優れた作品、魂の根源を体現している作品を真に理解することが難しいのと同じことである(そういう作品を作ること自体めったに出来るものではない)。しかし創作された作品を通して、不十分で間接的にだが、ある程度魂の交流を行うことはできるのである。同人雑誌に集まった仲間たちは、互いの作品を通して互いの魂の深淵部と交流し合う団体なのであった。しかしそれは宗教団体に見られるような全面的な同化、一方的な交流ではなく、そこには常に「批判」が伴うのである。彼らは互いの作品を見た後、必ずといっていいほど言う、「この部分はいいがここはダメだ」「全体的にパッとしない」「もっといいものが出来るはずだ」。誉めるときにもせいぜいこの程度だ、「まあ、よく書けてると思う」「前よりは大分向上したね」。しかしそのような「批判」があってこそ魂は一層向上しようとするのである。このような批判は切磋琢磨という同人雑誌の精神を体現した道具であり、同人たちの魂と作品の発達を促す作用をしていたのである。

電子同人雑誌の可能性 10 「同人雑誌のネットワーク」

2016-08-14 15:30:06 | 日本文学の革命
同人雑誌に集まった若者たちは、社会に向けて出版活動をしながらも、同時にまた一人一人がまだ未熟ながらも創作家であった。自分たちの創作能力を成長させ、立派な作品を作り出したいというのが彼らに共通した目標であった。彼らは出版活動をする一方、創作能力を成長させるために(それは人間的に成長することでもある)様々な切磋琢磨を同人同士で行った。文学的議論や勉強会などは実に盛んに行われた。若き坂口安吾は同人仲間とよく「ふかし芋」を食べながら下宿で夜通し文学談義をしたそうである。面白そうな作品、新しい潮流などが現われると、すぐに同人同士に教え合い勉強し合った。定期的に会合を開いては読書会なども行った。同人仲間が語らって、尊敬する師や先輩に会いにゆくということもよく行われた。飲み会などは常習的に行われた。「文壇バー」などという言葉もあったように文学者や文学青年の溜まり場になったバーやカフェや酒場が各地に現われ、そこでは夜通し文学談義の花が咲き、互いに酩酊し合いながら裸の付き合いをし、酒場の女性や文学好きの女子との間に恋の花も咲いたのである。太宰治も酒場に入り浸ることを愛し、一日の創作が終わるとさっそく友人たちと酒場に出かけ、文学談義をしながら痛飲し、辛い日常を忘れる酩酊に耽ったのである。

集まる種はなんでもよかった。ビリヤードでも麻雀でも温泉旅行でもなんでも彼らの交流の機会になり、彼らの人間的成長や芸の肥やしとなっていった。同人が遠方に旅立つ、あるいは西洋留学から帰って来るなどのときには送別会や歓迎会が開かれた。互いの家の訪問も盛んに行われた。志賀直哉の家の立派な客間と絶品の料理は文学青年たちの憧れであった時期もあった。落伍者に憧れるボヘミアン的放浪者の坂口安吾などは友人たちの家に転がり込んでそこで創作活動をしていた。葬式の時にも同人たちがしばしば中心となった。北村透谷が自殺したときも、小林多喜二が殺されたときも、真っ先に駆けつけて誰よりも嘆いたのは同人たちだった。

電子同人雑誌の可能性 9 「同人雑誌のネットワーク」

2016-08-14 15:27:50 | 日本文学の革命
この「同人内―同人間―文壇のネットワーク」を詳しく見てゆこう。
まず「同人内」である。

同人雑誌に集まったものたちは社会的に見ればまず第一に出版団体である。彼らは今日出版社が行っているような活動を手作り手弁当で行っていた仲間的な団体である。彼らは雑誌が掲げる理想、中心となるコンセプトを考え出し、毎号の編集活動をし、表紙のイラストからデザインまで考案し、特集記事を企画し、また自らライターとなって執筆を行い、外部の人間にも執筆を依頼し、一つの雑誌を自分たちの力で作りあげていった。ゲラ刷りから印刷、製本まで自分たちで行った。販売も彼らの仕事であった。彼らは数名から数十名の団体だったが、その一人一人の同人の周りにはさらに数十人、多いものでは数百人のネットワーク―知人や友人や先輩後輩や恩師、家族や親戚や恋人や仕事関係の人脈などが広がっていた。本屋や出版社にコネが効く者もいただろう。彼らはそのネットワークを総動員して同人雑誌の販売や宣伝に努めたのである。

この同人雑誌の出版活動自体が彼らにとって得難い体験となったであろう。普通の出版社では企画・編集などの高度な業務にたずさわれるのは出版社の中でもごく少数の選ばれた者だけである。しかしこの小さな仲間的集まりでは誰でも企画・編集などの中枢業務に参加できたのである。しかも戦前の同人雑誌ではそれがしばしば「新しい文学表現を生み出す」だの「女性解放」だの「社会的正義の実現」だのと普通の出版社ではとても掲げることの出来ないような広大な企画だったのである。印刷や製本を自分たちで行うという体験も、まさに手作り感満載であり、根本的な喜びとなったことだろう。自分たちのネットワークを利用した販売も、単に製品を売り金を得るというものにとどまらず、自分たちのネットワークをさらに強め、さらに広げ、多彩で豊かなものにしてゆくことでもあるので、彼らの人間的成長に大きく貢献したことであろう。(僕もある時期『ネバーモア』という同人雑誌に所属していたが、その時の同人たちとの交流は今でも懐かしく鮮明に覚えている)