昨日の朝日新聞夕刊に、「追憶の風景 作家 渡辺淳一 札幌医科大学 生きる源 患者に学んだ」という記事がありました。
各界の方に、活動のきっかけとなった場所を紹介してもらうコーナーです。
医師で作家でもある渡辺淳一さんは、お母さんの勧めで医師になりますが、実際に触れた患者さんの様子から作家になる道を進まれたのだそうです。
患者さんは、死を直前に取り乱す人もあれば、静かに死を受け入れる人もあり、脈をとる看護師さんの手をいつも握りかえす患者さん、80歳近い女性でリハビリでイケメンの理学療法士をつかまえて離さない患者さんもあるとのことです。
作家の渡辺淳一さんが医師になったのは、商家の跡取り娘だったお母さんの強い勧めがあったからです。
渡辺さんが、京都大学で哲学の勉強がしたいと言うと、
「哲学なんて一銭にもならない」と反対されました。
札幌医科大学に入ると、河邨(かわむら)文一郎教授に誘われて、整形外科を選びました。
河邨教授は、札幌オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」を作詞した方です。
河邨教授は、昼休みには詩の話をされ、渡辺さんが新潮同人雑誌賞を受賞したときも喜んでくださいました。
渡辺さんは、小説を書きながら医師としても順調に進み、講師にもなりました。
札幌医科大学で、和田心臓移植事件が起こりました。
雑誌の取材に、渡辺さんは「ドナーの脳死の判断が早すぎたのではないか」と述べます。
これが問題になり、大学に居づらくなりました。
それなら、いっそ小説一本でやっていこうと決心しました。
お母さんに、大学の講師を辞めて、東京で作家になると告げたところ、泣きながら反対されました。
「そんなあてにならない商売はやめなさい。うちの家系にそんな怪しい商売に入った者はいない」
東京へ出てみると、実際に作家は怪しい商売だったそうです。
採用される予定のない原稿を、夜中にごそごそ書き、知りあいの編集者に持ち込みます。
常に「才能はオレの方が上だ、自分が一番だ」と思っていないと足元が崩れるような不安がありました。
有馬頼義先生の「石の会」に所属していました。
会の早乙女貢さんが、直木賞受賞の席で受賞のあいさつをしても、「石の会」のメンバー30人近くは拍手もしなかったのは、そういう雰囲気があったからでした。
渡辺さんが生き残れたのは、多くの編集者が励まし盛り上げてくれたおかげと思っています。
それにのせられて、眠っていた才能が目覚めました。
原稿をけなされてもへこたれない「鈍感力」もありました。
直木賞を受賞して40年になります。
お母さんは、直木賞を取るまでは、新聞広告の小説誌で渡辺さんの名前を見つけると励ましの電話をしてこられました。
受賞後は、小説の話はされなくなりましたが、札幌の実家には渡辺さんの本がすべて揃えられていました。
お母さんは、1994年に亡くなりました。
今でも「怪しい世界でなんとかここまで来られたよ」と報告したいということです。
--------------
お母さんの影響は大きいものなのですね。
患者さんについて、「肌をふれあう、手を取り合うだけで、どれだけ人間は回復するか。手当てということばのもとは、こうしたふれあいです」と述べていらっしゃいました。
各界の方に、活動のきっかけとなった場所を紹介してもらうコーナーです。
医師で作家でもある渡辺淳一さんは、お母さんの勧めで医師になりますが、実際に触れた患者さんの様子から作家になる道を進まれたのだそうです。
患者さんは、死を直前に取り乱す人もあれば、静かに死を受け入れる人もあり、脈をとる看護師さんの手をいつも握りかえす患者さん、80歳近い女性でリハビリでイケメンの理学療法士をつかまえて離さない患者さんもあるとのことです。
作家の渡辺淳一さんが医師になったのは、商家の跡取り娘だったお母さんの強い勧めがあったからです。
渡辺さんが、京都大学で哲学の勉強がしたいと言うと、
「哲学なんて一銭にもならない」と反対されました。
札幌医科大学に入ると、河邨(かわむら)文一郎教授に誘われて、整形外科を選びました。
河邨教授は、札幌オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」を作詞した方です。
河邨教授は、昼休みには詩の話をされ、渡辺さんが新潮同人雑誌賞を受賞したときも喜んでくださいました。
渡辺さんは、小説を書きながら医師としても順調に進み、講師にもなりました。
札幌医科大学で、和田心臓移植事件が起こりました。
雑誌の取材に、渡辺さんは「ドナーの脳死の判断が早すぎたのではないか」と述べます。
これが問題になり、大学に居づらくなりました。
それなら、いっそ小説一本でやっていこうと決心しました。
お母さんに、大学の講師を辞めて、東京で作家になると告げたところ、泣きながら反対されました。
「そんなあてにならない商売はやめなさい。うちの家系にそんな怪しい商売に入った者はいない」
東京へ出てみると、実際に作家は怪しい商売だったそうです。
採用される予定のない原稿を、夜中にごそごそ書き、知りあいの編集者に持ち込みます。
常に「才能はオレの方が上だ、自分が一番だ」と思っていないと足元が崩れるような不安がありました。
有馬頼義先生の「石の会」に所属していました。
会の早乙女貢さんが、直木賞受賞の席で受賞のあいさつをしても、「石の会」のメンバー30人近くは拍手もしなかったのは、そういう雰囲気があったからでした。
渡辺さんが生き残れたのは、多くの編集者が励まし盛り上げてくれたおかげと思っています。
それにのせられて、眠っていた才能が目覚めました。
原稿をけなされてもへこたれない「鈍感力」もありました。
直木賞を受賞して40年になります。
お母さんは、直木賞を取るまでは、新聞広告の小説誌で渡辺さんの名前を見つけると励ましの電話をしてこられました。
受賞後は、小説の話はされなくなりましたが、札幌の実家には渡辺さんの本がすべて揃えられていました。
お母さんは、1994年に亡くなりました。
今でも「怪しい世界でなんとかここまで来られたよ」と報告したいということです。
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お母さんの影響は大きいものなのですね。
患者さんについて、「肌をふれあう、手を取り合うだけで、どれだけ人間は回復するか。手当てということばのもとは、こうしたふれあいです」と述べていらっしゃいました。