哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

スポーツとバトル

2012-07-24 03:32:00 | 時事
今月の文藝春秋誌の塩野七生さんの連載のテーマは、ロンドンオリンピックにちなみ、スポーツとバトルの間についてであった。オリンピックでの戦いを、単にスポーツとして捉えるか、それよりも真剣なバトルとして捉えるかによって、勝とうとする本気度が違うという。塩野さんによれば、日本は他の国に比べて、スポーツとしてしか捉えていないから勝てないというのだ。さらには、裕福で心配の少ない国ほどバトルに真剣にならないためか、スポーツの勝負に勝てないという。また、生活に心配のない国ほど、今度は残忍な虐殺事件が起きてしまうとして、ノルウェーの乱射事件を取り上げている。そういえば、いまだに日本でも無差別殺人事件が続いているし、つい先日アメリカでも映画館での乱射事件が発生した。

そもそもオリンピックは平和の祭典と謳っているから、国家間の戦いのように考えるのがおかしく、常々池田晶子さんが書いているように、国別対抗のような扱いを無くすのが筋であるように思える。しかし、オリンピックが戦争の代償行為となり、塩野さんのいうように、市民の闘争心のはけ口となるようであれば、それで本当に実際の戦争行為や虐殺行為が減るならば賛成できそうな話である。では果たして、スポーツを真剣なバトルと考えて戦うようになったとして、それで本当に戦争が減って世界や社会の平和につながるのだろうか。

この点はどうしてもまだ得心がいかない。オリンピックが真剣なバトルになれば、それがかえって国家間の感情的な対立として戦争の火種になりかねないように思うし、仮にオリンピックで闘争心を解消できても、現実の資源や領土を巡っての争いがなくなるとは考えにくいからだ。

確かに塩野さんの書いているように、明日の暮らしにも不安があるような国内状況の国では大量殺人が起きないというのはわかるが、かつて第二次世界大戦へ突き進んだドイツのように国内の不安や不満が国外への侵略行為に転嫁してしまうケースもあり、国民の生活状況の困窮が闘争心のはけ口としてうまく機能する保証もなさそうに思える。


かつて近未来を扱った映画で、戦争や殺人が無くなって社会が平和になったかわりに、選ばれた戦士が合法的に殺しあってそれを観戦するスポーツが行われているというのがあったように思うが、このようなスポーツが実際にあったとして、おそらくそれを現実に摘要しようとする輩が出てくるのが世の常であるように、どうしても思えてくる。