9月11日のテロ事件記念日にコーランを焼却しようとする動きがあり、記念日直前に連日報道されていた。結局貿易センター跡地近くにモスクを建てることを別場所にする約束でそれは回避されたという。しかし、テロ事件以降、イスラム教信者への差別が強まっているとの報道も多い。
世界はどんどん不寛容な時代になっているのか。確かに宗教同士の戦争は人類史でも多くの時代で行われてきた。しかし、宗教自体はそもそも寛容の精神であったはずだし、人類は歴史の過程においても寛容さこそ必要ということを学んできたはずではなかったか。
「理性の言葉によって論駁することはできる。納得しようとしまいと、正しく語ることならばできるのである。本当に難しいのは、納得しようとしないその感情をも納得させ得るような正しさの言葉だろう。本来は、宗教の言葉こそが、争いと憎しみのこの人類史において、そのような役割を果たしてきたのではなかろうか。」(『ロゴスに訊け』「汝に敵は存在しない」より)
2001年9月のテロ事件後、多くの人が衝撃を受け、そしていろいろな語られ方をしたが、たいていはテロ側に反対する論調だった。しかし、チョムスキーのように大勢に迎合しない論調も、少なかったが見られた。決して多数であることが正しいとはいえないことを改め考えさせられたものだ。しかし多数に反対することは、なぜか勇気を強いられる。多数に迎合することなく正しいことを堂々と言えるかどうか、これは一人一人が常に試される問題だ。
世界はどんどん不寛容な時代になっているのか。確かに宗教同士の戦争は人類史でも多くの時代で行われてきた。しかし、宗教自体はそもそも寛容の精神であったはずだし、人類は歴史の過程においても寛容さこそ必要ということを学んできたはずではなかったか。
「理性の言葉によって論駁することはできる。納得しようとしまいと、正しく語ることならばできるのである。本当に難しいのは、納得しようとしないその感情をも納得させ得るような正しさの言葉だろう。本来は、宗教の言葉こそが、争いと憎しみのこの人類史において、そのような役割を果たしてきたのではなかろうか。」(『ロゴスに訊け』「汝に敵は存在しない」より)
2001年9月のテロ事件後、多くの人が衝撃を受け、そしていろいろな語られ方をしたが、たいていはテロ側に反対する論調だった。しかし、チョムスキーのように大勢に迎合しない論調も、少なかったが見られた。決して多数であることが正しいとはいえないことを改め考えさせられたものだ。しかし多数に反対することは、なぜか勇気を強いられる。多数に迎合することなく正しいことを堂々と言えるかどうか、これは一人一人が常に試される問題だ。