哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

セカンド・ライフ

2007-07-01 19:37:37 | 哲学
 表題の名称は、いま流行のネット上のバーチャル社会のことです。世界の誰でも参加でき、会話をしたりゲームをしたり、またネット専用のお金で買い物をしたり、商売もできたりするそうです。また現実の企業が、そこで新製品のテスト販売をしたりもしているそうです。

 コンピューター・プログラム内のバーチャル社会というと、すぐにハリウッド映画を思い出したりしますが、バーチャルについて池田晶子さんはどう書いておられるでしょうか。
 たまごっちやアイボに心はあるか、というテーマでの話を要約して引用します。


「たまごっちやアイボは、生命ある自然物ではなく人工の機械であり、小説や漫画の人物は、現実の生存ではなく架空の物語である。あれらに心を感じることが可能なのは、こちらの心がそう感じているからに他ならない。問われている「心」の何であるかが不明である限り、対象に心が「あるかないか」を問うことはできない。したがって、心とは、それを心だと感じているまさにそれが心だということになるのである。
 心は、人間を越えて全存在者を包摂するそれ自体は不可知の、しかしまぎれもない現実である。なぜなら、心がそれを現実だと感じれば、それが現実であるからである。目に見えるか手で触れるかも関係がない。われわれはそれを憶測し、憎悪し、愛着し、嫉妬する。これがわれわれの日々のまぎれもない現実である。
 山川草木、「生きとし生けるもの」が魂を有するとする古代のアニミズムをも包摂して広がる、これは新たなリアリティである。その意味で、「仮想現実(バーチャルリアリティ)」という言い方は当を得ている。現実とは、「思われて」現実である以外はあり得ないからである。
 仮想と現実の区別がつかなくなっていることが、人々が倫理の基軸を失っているゆえんだとも言われるが、これは理由にはならない。そもそも、仮想と現実に区別はないからである。ゲームで人を殺すのも、実際に人を殺すのも同じことだ。それを「悪い」と感じるその心とは何か、もしくは感じない心もあるのはなぜなのか、そういったことを問い続けていることこそが、倫理的であるというそのことであるのは変わらない。われわれ=この宇宙は、いったい「何を」しているのだろうか。」(『考える日々Ⅲ』心で感じる仮想と現実)


 仮想と現実に区別はなく、ゲームで人を殺すのも実際に人を殺すのも同じこと、との指摘は的確です。ゲームや漫画に浸りこむことが現実からの逃避になってしまうのも、まさに仮想と現実に区別がなくなっている証左かもしれません。

 バーチャル社会(仮想現実)に関しては、現実とは「思われて」現実である以外はありえない、という言い方をされています。観念=現実ということですね。

 引用した文章の最後の「われわれ=この宇宙は、いったい「何を」しているのだろうか。」は、本当に池田さんらしくて大好きなフレーズです。