哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

墓碑銘(週刊新潮の「人間自身」最終回)

2007-03-11 00:51:00 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載の「人間自身」最終回は、「墓碑銘」という題でした。最後も、本当に池田さんらしい文章で締めくくられています。ローマで見られるという墓碑に刻まれている言葉の話のところから、少し抜粋します。



「こんな墓碑銘が刻まれているのを人は読む。「次はお前だ」。
 他人事だと思っていた死が、完全に自分のものであったことを人は嫌でも思い出すのだ。

 私は大いに笑った。
 こんな文句を自分の墓に書かせたのはどんな人物なのか。存在への畏怖に深く目覚めている人物ではないかという気がする。生きているものは必ず死ぬという当たり前の謎、謎を生者に差し出して死んだ死者は、やはり謎の中に在ることを自覚しているのである。

 それなら私はどうしよう。一生涯存在の謎を追い求め、表現しようともがいた物書きである。ならこんなのはどうだろう。「さて死んだのは誰なのか」。楽しいお墓ウォッチングで、不意打ちを喰らって考え込んでくれる人はいますかね。」



 何者でもない者として池田某という言い方をよくしておられた池田さん、最後は「さて死んだのは誰なのか」とは! この煙に巻くような、それでいて存在の原点に立ち返るような言葉が池田さんらしいですね。

 このような、不意打ちを喰らわせて考えさせようとする言い方は、池田晶子ファンにとってはおなじみですが、そうでない方にとってはちょっと受け入れにくい方もおられたのでしょう。池田晶子さんの過去の文章に対する反発もいくつかのブログで見られます。池田晶子さんも、子供向けの本は別として、わかっていない大人に対しては「考えが足りない」と突き放す言い方(まさに不意打ちを喰らわせているのですが)をするものですから、言われた方が存在の原点に立ち返って考えることをしない限り、いつまでも「わからない」ことになってしまいます。

 わかるものはわかるし、わからないものはわからない、自分さえ「善」ければそれでよい、という文章を最近はよく書かれていた池田さんですが、わかりたいと思う人にとってならば池田さんの文章は、人生=生存=存在の謎を考えるための万人向けの、誰に対しても開かれている扉ですよね。