池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「あくまでもノーと言う」という題でした。また前回の続編のようです。主なところを要約しつつ抜粋します。
「脳ブームの馬鹿らしさ。一見して明瞭なのは、行為の主体の不明瞭、責任の所在の不明確である。自らの行為を行為するのは、自らではなく「脳」なのだと思いたがっている。責任転嫁というよりも、責任の無限後退、自分の人生を生きているのは、さて誰なのか。
先のわからない人生、決断を迫られる人生、脳が自分のかわりに決めてくれる、生きてくれるということにすれば、人生の実存的恐怖に直面しないですむ。泣けてくるような責任放棄である。」
池田晶子さんは脳ブームに本当に怒っています。脳のせいにするのは責任放棄だと。脳=私なら、脳がどうのと言わず、私という一人称で語れ、ということですね。脳というものに惑わされることを「科学教、脳信仰」とも言っておられます。
文の最後には、「自ら考え、自らの言葉を語る人間はどこにいるのだ!」と叫んでおられます。それはもしかしたら、日本には唯一人しかいないのかもしれませんが、一歩でもそれに近づきたく理解しようとする人々は、それなりに居るのだろうと思うんですけどね。
「脳ブームの馬鹿らしさ。一見して明瞭なのは、行為の主体の不明瞭、責任の所在の不明確である。自らの行為を行為するのは、自らではなく「脳」なのだと思いたがっている。責任転嫁というよりも、責任の無限後退、自分の人生を生きているのは、さて誰なのか。
先のわからない人生、決断を迫られる人生、脳が自分のかわりに決めてくれる、生きてくれるということにすれば、人生の実存的恐怖に直面しないですむ。泣けてくるような責任放棄である。」
池田晶子さんは脳ブームに本当に怒っています。脳のせいにするのは責任放棄だと。脳=私なら、脳がどうのと言わず、私という一人称で語れ、ということですね。脳というものに惑わされることを「科学教、脳信仰」とも言っておられます。
文の最後には、「自ら考え、自らの言葉を語る人間はどこにいるのだ!」と叫んでおられます。それはもしかしたら、日本には唯一人しかいないのかもしれませんが、一歩でもそれに近づきたく理解しようとする人々は、それなりに居るのだろうと思うんですけどね。