かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

やらなくっちゃ!

2012-02-16 08:16:19 | サイエンズスクールのある暮らし
 ことさら強くじぶんのなかに出てきたときのことだけでは
なさそうだ。
 なにか焦ったり、しまったとおもったり、「もしできなかったら
どうしよう」とか、いろいろな表れかたをしている。

 お弁当屋さんの肉の下ごしらえをしている。
 発注書を見たとき、どんな反応が起きているだろう?
 一瞬、「やるもの」というのが、まずあるようだ。
 「やれるかな、やれないかな」とおもうときもある。
 「やれるな」となったら、少々「面倒だな」とおもったり
「やりたくないなあ」という気持ちがあっても、「やる」と
いうことにしている。
 
 「そんな事情ならしかたないなあ」という場合もある。
 そんなとき、「やろう」というのは、どんなところから
出てくるのだろう。
 「そういう状況ならやろう」というのは、おかしなことは
ないようにおもってきた。
 そういう状況があっても、やらない時もある。
 そういう状況があっても、「やりたくないなあ」と
おもうときもある。
 そういえば、「やりたくないなあ」というのも、じぶんの
状況でもある。
 自分の状況、あるいは気持ち、あるいは意思はどこなのか?

 あずわん・コミュニテイの見学に来られる方の受け入れを
している。
 メールで見たり、受けた人から聞いたとき、どんな反応が
起きているのだろう。
 日程案をつくったり、それを関係の人たちに連絡する。
 連絡を受けた人は、それぞれ都合とかいろいろかんがえて、
「やります」とか「できない」とか言ってくれる。
 その返事を聞きながら、自分のなかに、どんな反応が
おきているのだろう。
 「見学にくる人がいるのだから、受け入れるのがあたりまえ」
 言葉では言っていないかもしれないけど、「やらなくっちゃ」
こんなものがありそう。

 状況としては、「見学希望の人がいる」
 「受け入れたいという気持ちのじぶん」がある。
 ほかの人のことは、まずはわからない。
 
「見学希望の人」がいたら、なんとしてもやらなくちゃ、
ならないか?
 そういう事情があるということと、じぶんがそのことを
知ったとして、即「やる」「やらなくっちゃ」になるという
のはどういうことだろう。

 就学前の孫がいる。
 お母さんから「風呂に入るよ」と声がかかる。
 孫は、その時テレビを見ている。
 返事も忘れて、テレビの世界に没入している様子。
 お母さんは、なんども呼ぶ。
 どうなるかなと見ていると、ある瞬間、さあーと風呂に
向かって走っていく。
 この子のなかに「やらなくっちゃ」というのが、あるのかなあ
とおもう。

 幼少期の遊びに、「やらなくっちゃ」というのがあったろうか?
 どんなことで動いていたのだろう?
 「やらなくてもいい」というような言葉があったわけでは
ないだろうけど、そのとき自分を動かしていたのはやりたい
一心、興味本位、好きなだけやる、やめたくなったらやめる、
なんとなく自発的、自由意志などの世界そのもの、だったのかな。
 「ごっこ」遊びも、やったなあ。
 
 いま、実際この世の中で、「ごっこ」遊びなんかするのは、
ご法度かどうか。

 四日連続の日常化レッスンを3日過ぎて、どこに焦点を当てて
いくのかなあと、この辺にいるようだ。

 
 

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