かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

二回目の内観コースに参加して

2011-04-30 17:40:36 | サイエンズスクールのある暮らし
 昨年11月に鈴鹿に引っ越してきて以来、一年ぶりに合宿の集中コースに参加した。東北大地震の影響か、じぶんのなかがざわついている感じ、視線が外に向いている感じ、ちょっと自覚しようと意識してもおっつかない感じがしていた。内観という時間をもとうと思った。
 
 やってみて。昨年のときと違って、切迫感がなく、じっくりやれたと思う。
母や父にたいしての自分では、その存在がとても大きかったということをあらためて知った。じぶんがこしらえてきた父や母にたいする物語が小さいものになった。
 
 母からは、たとえば観音様の慈悲のようなものをこころに沁みこませてくれたのかな。父には、「申し訳ありませんでした(間違っていました)」の一言が言えなかったじぶんに気が付いた。「申し訳ありませんでした」というには、じぶんのなかに、はっきり根拠があり、そこからが未来へのはじまりだと思う。父は18年前に亡くなっている。父とは、実際にそのことはできないが、これから共に暮らす周囲すべての人にたいしては、じぶんのなかの希望としてある
 
 別れた妻にたいしてもしらべた。しらべていけばいくほど、その人の存在が「あたりまえのことを、あたりまえにやってきて、彼女の精一杯の愛情を子供たそそいできたし、いまもそうなんだろうな」と見えてきた。「ほんとうに、ありがとう」という気持ちがわいてきた。
 
 妻には「こんな自分に愛想もつかさず、さいごのところで見放さないで、じっとぼくの隣にいてくれたんだなあ」とありありと見えてきた。身近にいる人に「ありがとう」というのは恥ずかしい感じがするけど、じぶんのなかからでてくるものをおさえるわけにはいかない。日常のこまかいことに、いちいち難癖つけているちっぽけなじぶんも照らしだされた。
 
 じぶんが見たこと、聞いたこと、感じたことを実際だとし、じぶんの考えを実際だとしているために、他の考えを聞かない、聞けない状態になっていることに気が付かない。ここは、自分を見るという状態にならないかぎり、つかめない、そんな感じがしている。これからも、間違いおおきじぶんかもしれないけど、おつきあい、おねがいしたい。
 
 嘘とごまかしにたいする自分をしらべる時間ももった。子供のときから、27歳でヤマギシに参画するまで、それから今まで。しらべるというか、「嘘とごまかし」という観点でじぶんのこころの中を照らしてみると、これまではじぶんのこととしてやれたとしてきたことが、嘘といえるかどうか、でもごまかしといったら、そうとしか見えないといことが次からつぎに出てきた。
 じぶんが不安になったり、焦ったり、さびしくおもったり、おちこだり、いきずまったりしたとき、そういうときはそういうものにたいして、どんなふうにむかっていたか。そういうものが出てくるもとのほうを見ようとしてきたか。そのときこそ、もっとつっこんで掘り下げてみようとしたか。
 
 残念ながら、「どうしようか」「こうしたら」とか、なにかをすることで解決させようとしたり、「これはこういうものじゃないか」と他からもっともらしい理論や理屈をもってきて、思い込ませようとしたり、時代や育ちのせいにしたりして、表層でつじつまあわせをしてきたのではないか。
 このへんは、時間切れ。もっと、具体的な事例で、じぶんの状態をしらべてみたい。また内観コースに入りたいと思った。

 
 

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