かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

仙台・石巻の旅、おしまいに

2011-11-10 11:25:40 | アズワンコミュニテイ暮らし
 今回の旅では、何人もの旧知の人たちと再会した。
 自分なりに、それぞれの人と新しい出会いをしたという実感がある。
 被災された人にも会い、その現場も案内してもらった。

 おしまいに、感想をまとめたかった。
 でも。胸のあたりに何か塊りとしてあるのだけれど、それをうまく取り出せない
もどかしさがある。

 新しく出会ったというけど、どんなものに出会ったのか?
 出会った一人ひとりは、震災体験が今からの人生を深くしらべていくキッカケに
なっているように感じたが、それは震災体験があっても、なかっても、
その人のなかに、ずっとあったものではなかったか。
 
 絆とか、支え合いということが、震災以後、どこに行っても、このことの大事さが
言われている。
 「そうだよなあ」と思う。
 これって、震災が起きたから、俄かに大事になったわけではないだろう。

 土台だけになった街や廃墟のなった工場群を見た。
 たくさんの方が亡くなったり、いまだに行方不明の人もいる。
 近親の人、親しくしていた隣人を失った、被災を免れた人も、その悲しみは
瓦礫が片付き、復興して街のかたちがあらわれても、なかなか癒えないのではないか。

 「消えた街と人、まぬがれた街と人」と言ったけど、なんでそんな言い方をしているのか
じつは、自分でもよく分かっていない。
 
 今回、出会った人たちの話を聞くたび、人の安否を気遣ったり、お互い困っている人を
見たら、なんとかできないかと自ずと情が湧いてくる、そこからのいろいろなあらわれが
あったと感じた。
震災後、消息が知れなかった人に会ったりしたら、「ああ、無事だったんだね」と喜びが
湧きだしてくる。
 
 そのたびに、そこのところ、震災がキッカケで一人ひとりのこころに上ってきている
情のようなもの、それが一過性に終わらないように願わない人はいないだろうなと思った。

 そこは、震災や大津波というものがあっても、なかっても、一人ひとりにとって、
またともに暮らすお互いにとって、一番切実なことなのではないかなあ。

 どんなに仕事が順調にいっていると言っても、家庭で伴侶が悲しい思いをしていたら、
仕事の成功など、どのくらいのものか。
 この辺は、人それぞれ、考え方、生き方があると思うが・・。
 
 震災で、なにもかも失って、残るのものは、何だろうと考えた。
 それは、震災に遭わなくても、日々の暮らしがどのように見えているか、どのように見て
どのようにふるまっているのだろうと、こんどは自分に向いてきた。
 なんか、その辺に、ぼくの場合はなってきそうだ。
 
 復興といっても、街のかたちがもとに戻る程度では、どんなものだろう。
 人と人がどんな間柄のものか。
 家々は流されても、社会まで流されてしまったのだろうか。
 人と人の絆は、あらたにつくるようなものだろうか。
 
 どうしたら、一人ひとりが、ほんとうに安定して、満ち足りた社会があらわれてくるだろう。

 
 胸のあたりに、塊りとしてあるもの、ちぎってコトバにしてみた。
                                   (一応、終わりに)


 


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