かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

社会ってなんだろう?

2017-03-30 11:37:13 | アズワンコミュニテイ暮らし

毎日の暮らしって、そんなにドラマチックなことが起こるものでは

ないです。毎日、同じことの繰り返しのように感じたりします。

当たり前にしている暮らしが、なんでこんな風にできている

のか、ふと何か当たり前のとしているものが、パッカッと割れて、

何かが、見えて来るような時があります。

 

昨年12月初め、心臓の不整脈治療のため三重大学病院に入院しま

した。それ以来、3ヶ月、妻は24時間ではないですが、毎日病院に

顔を出してくれました。病院が名古屋に移ってからも、ほぼ一日

かけて、通ってくれました。

妻はコミュニテイのなかで、サイエンズスクールの合宿コース参加者の

生活スタッフをしていましたが、他の人が代わってくれて、「宮地の

世話に専心したらいいよ」と送り出してくれたそうです。

3ヶ月にもなると、妻が来てくれるのは当たり前みたいになります。

そのために、周囲の人たちが日々工夫をしながら、妻を支えてくれて

いることが当たり前のことって、なっていました。

ほんとにそうだろうか。

退院して、ハタと湧いてくるものがありました。考えてというより、

なにか包まれているものに触れた感じでしょうか。

 

療養生活です。1週間に一回、大学病院で心臓リハビリをはじめましたが、

心臓から全身に血液を送り出す働き、普通に人と比べると3分の1という

現状らしいです。

心不全の、どうも最低に近い状態のようです。

急な動作をすると、めまいや息切れがします。

今は1日20分、散歩することを、リハビリとしてやっています。

20分が、やっとなんですね。

倒れる前は、「理想の暮らしを語る会」で近しい人たちと、老いの

生き方、それに介護が要るようになった人と、どんなふうに地域で

暮していくか、けっこう熱心に語り合ってきました。

それは、どこか「そうなる人」は自分ではないと、決めてるような

ところがあったかなあ。いい気なもんです。

そんな自分がまさに当事者になっている、と自覚し無い訳には

いきません。

 

今、妻と出戻りの息子と3人暮らしです。

収入源は妻と私の国民年金、月7万ほどです。息子はときどき

稼ぎにいきますが、そんなに収入はありません。

妻も私も、療養のため年金以外、収入源が無い状態です。

それでも、毎日、普通に暮せています。お金が無くて心配という

ものがないとなあ、と気がつきます。

これは、家族のように親しい間柄で暮していこうという気持ちの

人が、お互いに支え合っていこうと寄り合っているためです。

物や人手が足りないときは、声掛け合って、出来るようにしています。

お金が足りない人があれば、持っている人が融通しています。

ファームやお弁当屋さんから、野菜や惣菜がプレゼントされます。

一人ひとりの持ち寄りでくらしているって、いえるのかな。

療養生活で困ったときはありません。

きのうは、オフィスから声がかかりました。

「いまの暮らしはどうですか?」と聞いてくれました。

オフィスっていうけど、そういう仕組みができた目的は、社会が

一人ひとりの意思を尊重し、困ったことがあっても、その人だけ

のことにしないで、先ず困ったことはどんなか、それを解決

するにはどんな知恵がいるか、などそこを見てくれているスタッフと

話し合っていくんですね。

いつも体験しますが、自分の中で思っていることを聞いてもらうと、

どこで詰まっていたか、あるいはこんな工夫ができるとか、どん

どん開けてくることが多いです。そこで、解決できなくとも、

先の見通しがもつことができるのです。

不思議です。

 

鈴鹿の隣、亀山市の長男一家が暮しています。

3歳と1歳3ヶ月の男の子がいます。和(わたる)と駿(しゅん)です。

2人の子は、鈴鹿にあるアズワンコミュニテイの同じような子ども

をもつ親たちといっしょにな部屋を借りて、「子どもの家」と呼んで、

共同の保育をしています。

夜はそれぞれの親元で暮します。

6人の幼児がいます。まだ増えるようです。

もちろん、一人ひとり、見ていくのですから、親たちだけではできる

はずもないです。実際の婆や子どもが好きな爺とか、いろいろな人が

その人の気持ちの分でかかわって、運営されているようです。

 

 

3月になって、長男の妻悠海さんから、サイエンズスクールの1週間の

合宿コースに参加したいんいだけど、婆である妻に相談がありました。

「社会を知るためコース」ということでした。

いままでも、そういうときが何回かありました。

昼間は二人、子ども家で遊び、夜、和はパパといっしょにわが家で、

駿くんはお母さんがいるスクールの研修所で一晩過ごしました。

今回は少し思案しました。

療養中のぼくを配慮してくれたのでした。

この期間中、二人は9時過ぎから3時過ぎまで、子どもの家で

遊びます。

「3時過ぎから、夕方6時ごろまで、預かってくれる人がいない

かなあ」話し合ったみたいです。

わが家の2階で暮す、小学生の娘が2人いる純奈さんが、「いいわよ」

と引き受けてくれました。

駿くんをご飯を食べさして、夕方6時ごろ、スクールのお母さんの

ところに送ってくれることになりました。

和は、わが家でパパといしょに夕食とお風呂に入り、子どもの家に

移って一晩過ごす段取りです。

パパが朝6時ごろ、職場に出かけるので、朝、子どもの家が

はじまるまで、見てくれる人も要ります。それも、難なく決まり

ました。

お母さんのもとにいる駿くんは、小浪婆がスクールに迎えに行き、

子どもの家に送り届けます。

 


ところが、はじまってみると、考えた通りにいかないのが世の常です。

純奈宅で夕方、和と駿を見てくれていましたが、階下の住民から

ドンドンという音が響いて、迷惑という苦情がありました。

和に静かにといっても、ちょっと無理でしょうね。

純奈ちゃんは、スマホのラインで、事情を説明し、「誰か3時半から、

パパが迎えに帰ってくる6時まで、和(わたる)見てくれる人がありま

せんか?」声をあげました。

何年か前から、コミュニテイではスマホが普及し、お互いの連絡は

ラインでやりとりするようになっています。

はじめは、さっぱり馴れず、苦労しましたが、いまでは老いも若きも

ラインを使いこなしています。

この声に、反応は素早かったみたいです。

ラインには「火曜日ならできる」とか、「木曜日の何時までなら

できるとか、「じゃあ、そのあとは私がやります」とかあっと言う間

に1週間の見てくれる人のシフトが出来て行ったようなのです。

実際のコミュテイでは、おふくろさん弁当にしても、ファームに

しても、手が欲しいときはラインで声を上げると、だいたい誰かが

手を上げてくれるようです。

面白いのは、声を上げる側に、「来てくれない」と不満が起こる

ようなことないみたいです。

応じる人は、自分の気持ちがあり、やれる分でやっていて、それで

けっこう上手く回っているようなんですね。

子ども達も、どこへいっても、人が代わっても安心して遊んで

いうようです。


一人ひとりはどんな気持ちでかかわっているんだろう?

 

こんなふうに書くと、「そのコミュニテイには、人が好い、善意の

人が集まっているんじゃないの?」と思われる方もあるかもしれ

ません。

人が好い、善意だけで、そんな現れになるんだろうか。



わが越し方を振り返ってみますと、「社会」というと、自分とは

疎遠に、むしろ自分に対するものというイメージがずいぶん

しっかりとあったように思います。

その後、コミュニテイで暮しながら「社会は一人ひとりの人間が

幸福になるためにある」と聞く機会が増えました。

そうだよな」と共感はしますが、どうも自分の中で得心が

いきませんでした。

そのうち、自分の行動の原動力が「人に迷惑かけたくない」

「なんでも、自分でやれるのがいい」

他人にやってもらうときでも、何か申し訳ない、見たいな気持ちが

あるようだけど、「これって何だろう?」と焦点が当たるように

なりました。


「社会」というけれど、どういうことを言っているんだろう。


春とはいっても、まだ寒さが残ります。

心臓リハビリとして、1日20分散歩しています。

散歩の途中、側溝の土手に土筆が天に向かって、佇立して群生して

いる風景に出会いました。

しばらく見ているうち、春の日差しを見たように思います。

土筆は太陽の光に照らされて、土筆の個性のままに、自分を表現

しているように見えました。

そういう目で散歩道の風景に触れていくと、日の光はどんな事物の

上にも振り注ぎ、分け隔てがないのです。照らされた事物の内実には

おそらく光についての反応し合う働きが起きているのでは。

ぼくは、「迷惑かけたくない」という気持ちがあっても、周りの

人たちに支えてもらいながら暮しています。

隔てのない社会の光を受けながら、生きるのが当たり前なのか、

繋がりのある人なかで、遠慮気兼ねをしながら生きていきたい

のでしょうか?


今、焦点を当てたいことがあります。

「決して個人の意思を妨げない」という考えがありますが、

そう思っている僕自身の中に、個人の意思を妨げることになりかね

ない、「人に強いたり、強いられり」という心の状態が自覚のない

まま、自分の言動に現れてきていないだろうか、観察するように

なりました。そこは、どうなっているのだろう?

身近な人の間で、「なんでやらないの?」とか、言葉にしなくとも、

そいういう気持ちが起きていることが見えてきています。



自分自身のなかでも、人と人の繋がりでも、社会にも、

こういう「人に強いたり、人に強いられたりが一切ない」

世界の実現を目指したいです。

みんなで知恵や心を寄せ合って。

その過程で、どんな社会や人が現れてくるのでしょう?




 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


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