動物の親子と花摘む娘

自分の思い込みと真実の姿は大きく異なることがあるという内容の法話を、左甚五郎~寛永寺昇天の龍~をベースに初めてやってみた。自己採点は30点というところ。これから練って仕上げていこうと思いつつ寺に帰ってきたら、カドカワから2016年11月に出た『凹まない』の韓国版が届いていた。日本版では、編集者との最初の打ち合わせで「動物の親子の写真かイラストを入れた、安心をテーマにしたものを作りたい」という案だった。それが、韓国版のカバーデザインでは、花摘む女性のイメージになっている(花が巨大なのか、女性が小人なのかはわからない。ぐはは)。お国変われば、いろいろ変わるものだと思う。いずれにしろ、こうして海外の方にも日常に落とし込んだ般若心経の考え方をお伝えできるのは、坊主冥利というか、筆者冥利というか、ありがたい

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今日は「写仏の庭」。

今日は「写仏の庭」(13時~15時。19時~21時)。どなたをお手本にしようかと思案して、描いた手本の中で目にとまったのは弁天さま。先日家内が友人に誘われて行ったのも江ノ島の弁天さま。久しぶりに聞いた浪曲「左甚五郎~寛永寺鐘楼堂の登り竜~」にも、実際に目で見たことがないものは彫ってはならぬという師匠の言葉に、上野不忍池の弁天さまに願かけをして21日間お参りした夜に、夢で竜を見られて、そのあと愉快な話が展開する。なんとなく縁を感じたので、今日のお手本は弁天さまにした。
元はインドの河の女神サラスバティで、芸術の才能を引き出してくれる神さまだそうで、辞書にも、財産の財の弁財ではなく、才能の才の弁才天表記が多い。単に財産が欲しいという素朴な願いではなく、財産を作ることもできる自己表現の才能を伸ばしたいという向上心を含んだ願いのほうが人生は充実するだろうと思う。

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厚紙地蔵

ざっと150枚ほどお地蔵さまを厚紙に描いたので、押したハンコを乾かしている図である。ここから、ヨダレカケに色を入れて、それぞれに言葉を書き、ビニール袋に入れれば、配れる格好になる。これで、いただいたお菓子やらの箱の紙の厚紙がなくなった。人には自分で決めたゴールがある。「厚紙にお地蔵さまを500体描く」とすることもできるし、「厚紙が無くなるまで描く」でも「お中元シーズンが終わる7月15日まで」と決めてもかまわない。もちろん、自分で決めたゴールだから、辛いなどの事情があれば、これまた自分で勝手にゴールを変更するものゼンゼンかまわない。8月に出る予定の本では、そんな一項目もあったっけ・・・。これでしばらく、地蔵厚紙バージョンはお休みだ。

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口を開けて歩く人々

体内の熱を吐き出そうとしているのだろう。道を歩いている年配の人の多くが、私を含めて、口を開けて歩いている・・・。ぐはは。

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それぞれの場所で、それぞれがやるべきことがある。

目眩(めまい)がするような暑さの中、東京のお盆をそれなりに過ごしつつ、廃棄処分になる空き箱の厚紙に書きも書いたりお地蔵さまと言葉を200枚。今月末に友人のお寺で行われる施餓鬼にいらっしゃった方に、好きなものを持って返ってもらおうという算段である。夕べ夜なべしてビニール袋に入れ終えたので、今日は西日本の豪雨でなくなられた方々の冥福を祈り、救援活動をしている方々の健康を案じながら、10月までに書き終える予定の本の100項目の内容を各々をどう展開するか検討し始めた。

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かんにんの六助

二つの連載エッセイを担当者に送って、8月に出る予定の本の最終校正用のゲラが届くまで、秋までに書く予定の本の企画に目を通した。夕方は、来年出るかもしれない本の打ち合わせで池袋。皆さんに愉快なお話をこの場でご紹介しながら、やるべきことはせっせと片づけておりますです。ぐはは。

ということで、今回は「かんにんの六助」のお話。かなり荒唐無稽な話ですが、とても示唆に富んだ教えだと思います(少し長くなりすが読み切りです)。

「またこの癇癪短気を直すのに何よりいい話があります。昔、何事にも腹を立てず、我慢して忍んでいる、人呼んで「かんにんの六助」という人がいました。
 ところが、我慢強い六助をあまり人が褒めるので、それを妬んだ近所の若者たちが、六助を困らせようと10人ほどワルガキを集めて、そのうち2、3人が歩いている六助の頭を後ろから10回ほど殴った。ところが、六助は顔色一つ変えずに歩いていくので、今度は4、5人で5、60回も殴った。それでも六助は何事もなかったように静々と歩くので、たまり兼ねたワルガキたちは憎らしい奴だと全員で数限りなく殴った。
 それでも泰然としている六助を見て、さしもの悪党たちも恐れおののいて「さても、さても、六助殿。あなたはどんな術で、そこまで我慢できるのですか。殴れるにしても50や60回なら我慢できるかもしれませんが、500も600回も殴られたのに顔色一つ変えず我慢して平然としているとは、とても人間業とは思えません。きっと何か秘術があるに違いありません。この上は、私たちのやったことを許して、我慢の仕方をお教えいただけませんか」
 すると、六助はからからと笑いながら答えた。
「何も難しいことではありません。頭を何百回叩かれても、我慢するのはたった一つずつですから」
 悪党たちもこれを聞いて感服して「これからは、今のひと言を肝に銘じよう」と各々が心を改めました。
 この六助の言葉は、有り難い覚悟で、たとえ百千の堪忍できないことがあっても、ただ一つ一つ堪忍し、堪えていけば、堪えられないことなどありません。千里の道も一歩ずつ行けば、ついに千里を踏破できるように、一代の堪忍も、腹が立った時々に、たった一つずつ堪忍すれば、一生を安らかに過ごせます。
 朝に癇癪が起こったら朝のうちに堪忍し、夕べに癇癪が起きたら夕べのうちに堪忍し、昼に癇癪か起きたら昼のうちに堪忍しれば、意地も遺恨も残らずに、サラリサッパリする算用。そうすれば心に埃も塵も残らないのに、心に流れる水を自ら色々と塞き止めて、前回もこうだった、この間もこうだった、昨日もこうだ、今日もこうだ、こればかりは我慢できない、あればかりは許せないと、ハァハァスゥスゥと己が瞋恚(しんに:怒りのこと)に身を焦がし、ついには自棄(やけ)のヤン八になり、人をも身をも誤るとは、さてさて愚かなことではありませんか。
 この道理を合点して、癇癪や短気は、みな己がわがままと覚悟して、直さなければならないと覚悟するのです。この覚悟こそ、安楽の秘密の肝要なのです」

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覚悟と思惑さえあれば

(前回の続きです)さて、万兵衛の例を出して、先生がまとめるに・・・・
「この万兵衛のように、癇癪に限らず、万事、覚悟さえすれば、何事も堪忍できないことはないのだ。
 世の中、この覚悟一つで、耐えられないものはずっと少なくなる。熱くてもお灸は我慢できるではないか。それが何かの拍子に背中に転がり落ちると、熱い、たまらならいと驚き騒ぐ。『このお灸はわざと一度背中に転がり落とす治療ですから我慢してください』と伝えておけば、覚悟のほどが違うから、耐えることもできるのだ。
よいか、何事も自分の覚悟、己の思惑次第だ。覚悟と思惑さえあれば、世の中の多くのことは、堪忍できるし、耐えられもするのだ」
--これに続く「堪忍の六助」の話も、人生で何度も経験する癇癪を処理するにはとても示唆にとんだお話。次回にご紹介いたしましょう。あはは。

 

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生まれついての短気

(前回からの続きです)さて、気長安楽の指南を受けに来た、生まれついての癇癪持ちの短気者。先生は知り合いの万兵衛から聞いた話を伝えます。今日はその万兵衛が語ったこと--
『ある時、蔵の中で仕事をしておりますと、外でせわしなく私の名前を呼ぶ声がしました。私は何度も返事をしたのですが相手には聞こえないようで、なおも激しく私を呼びたてますから、私も次第にイライラしてきました。どうもその声は下働きの千吉のようで、下働きの分際で番頭に対して横柄な態度を取る奴だと頭にきました。それならと、わざと返事もしないでいると、蔵の外の声は大いに怒り、声を荒らげて、早く来たれ、すぐに来たれと憎々しげに叫びます。私もさすがに堪忍袋の緒が切れて、下働きの身でありながら、そのような無礼な千吉をこらしめてやろうと棒を手にして外に出ました。さて、目に物を見せてやろうと飛びだしたのですが、そこにいたのは千吉ではなくご主人だったので、思わず棒を後ろへ投げ捨ててその場に座って、冷や汗を流してお詫びしたのです。
 ここで気づきました。癇癪や短気は、気持ちの持ちようで、下働きの千吉だと思えば堪忍できませんが、ご主人ならば癇癪短気も起こらず、素直に頭を下げて謝れるのです。つまり、癇癪や短気は生まれつきではなく、こちらの心の持ちようだと覚悟いたしたのです。その覚悟のおかげで、その後は再び癇癪や短気は起きなくなりました』
--この後の先生の言葉まで書くと長くなるので、残りは次回! 

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夏の虫

 豪雨の被害に合われた方々には言葉もなくただ手を合わせて祈るばかり。そんな中でも、「誰のせいでもない」や「今、やることをやるしかない」や「日常が戻るまでは我慢だ」など、多くの覚悟が必要だろうと思います。その覚悟がないと、とても乗りこえられないでしょう。そんな覚悟の話を、癇癪持ちや短気な人に関連づけた面白い話があるので、ご紹介します。
 ある短気者が先生に相談しました。
「私は生まれつきの短気者で、自分でも困り果て、どうにかしてこの短気を直そうと忍耐に関する本などを取り寄せて読みましたが、生まれつきの性分は是非もなく、ことにふれては腹が立ち、癇癪が怒る時は、後も先も考えず、自分を見失ってしまいます。このような癇癪持ちでも、心が広く、気が長くなって安楽になる教えがあったらご伝授いただきたいのです」
すると伝授先生が言った。
「飛んで火に入る夏の虫という諺は、愚かなたとえを言ったものだが、かわいそうに、夏の虫は火を火と知らずに、ただ明るい所だ、赤い所だと思うから飛びこんで焼け死んでしまう。しかし、お前はその夏の虫よりもよほど値打ちがない。なんとなれば、短気を短気、癇癪を癇癪と知りながら改めないのは、火を火と知りながら火の中に飛んで入るのと同じではないか。まったく愚かさもここに極まれりというものだ。
 以前知り合いの番頭で万兵衛という者がいた。お前よりずっと癇癪持ちだったが、最近すっかり怒らなくなったから、どうやって癇癪を治したのだと聞くと、万兵衛は答えた。--さて、万兵衛に一体、何があったか・・・長くなるので、今回はここまで、続きは次回のお楽しみ。

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ベストセラーよりロングセラー

七夕(たなばた)は年に一回だが、今日は一周忌の法事と、年に一回の練馬でのお話。雨の被害がない東京の街は、見た目はいつもの日常だ(もちろん、雨の被害を受けている地域に住んでいる人のことを心配している関東の人は山ほどいる)。帰宅すると、書籍用の厚紙封筒が届いていた。三笠書房の『般若心経 心の大そうじ』の24刷だ。この本を書いてから11年か・・・。年に一回どころではない。数年ぶりの増刷はロングセラーの証。ありがたいと思う。

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