かんにんの六助

二つの連載エッセイを担当者に送って、8月に出る予定の本の最終校正用のゲラが届くまで、秋までに書く予定の本の企画に目を通した。夕方は、来年出るかもしれない本の打ち合わせで池袋。皆さんに愉快なお話をこの場でご紹介しながら、やるべきことはせっせと片づけておりますです。ぐはは。

ということで、今回は「かんにんの六助」のお話。かなり荒唐無稽な話ですが、とても示唆に富んだ教えだと思います(少し長くなりすが読み切りです)。

「またこの癇癪短気を直すのに何よりいい話があります。昔、何事にも腹を立てず、我慢して忍んでいる、人呼んで「かんにんの六助」という人がいました。
 ところが、我慢強い六助をあまり人が褒めるので、それを妬んだ近所の若者たちが、六助を困らせようと10人ほどワルガキを集めて、そのうち2、3人が歩いている六助の頭を後ろから10回ほど殴った。ところが、六助は顔色一つ変えずに歩いていくので、今度は4、5人で5、60回も殴った。それでも六助は何事もなかったように静々と歩くので、たまり兼ねたワルガキたちは憎らしい奴だと全員で数限りなく殴った。
 それでも泰然としている六助を見て、さしもの悪党たちも恐れおののいて「さても、さても、六助殿。あなたはどんな術で、そこまで我慢できるのですか。殴れるにしても50や60回なら我慢できるかもしれませんが、500も600回も殴られたのに顔色一つ変えず我慢して平然としているとは、とても人間業とは思えません。きっと何か秘術があるに違いありません。この上は、私たちのやったことを許して、我慢の仕方をお教えいただけませんか」
 すると、六助はからからと笑いながら答えた。
「何も難しいことではありません。頭を何百回叩かれても、我慢するのはたった一つずつですから」
 悪党たちもこれを聞いて感服して「これからは、今のひと言を肝に銘じよう」と各々が心を改めました。
 この六助の言葉は、有り難い覚悟で、たとえ百千の堪忍できないことがあっても、ただ一つ一つ堪忍し、堪えていけば、堪えられないことなどありません。千里の道も一歩ずつ行けば、ついに千里を踏破できるように、一代の堪忍も、腹が立った時々に、たった一つずつ堪忍すれば、一生を安らかに過ごせます。
 朝に癇癪が起こったら朝のうちに堪忍し、夕べに癇癪が起きたら夕べのうちに堪忍し、昼に癇癪か起きたら昼のうちに堪忍しれば、意地も遺恨も残らずに、サラリサッパリする算用。そうすれば心に埃も塵も残らないのに、心に流れる水を自ら色々と塞き止めて、前回もこうだった、この間もこうだった、昨日もこうだ、今日もこうだ、こればかりは我慢できない、あればかりは許せないと、ハァハァスゥスゥと己が瞋恚(しんに:怒りのこと)に身を焦がし、ついには自棄(やけ)のヤン八になり、人をも身をも誤るとは、さてさて愚かなことではありませんか。
 この道理を合点して、癇癪や短気は、みな己がわがままと覚悟して、直さなければならないと覚悟するのです。この覚悟こそ、安楽の秘密の肝要なのです」

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