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娘の友達が夕飯を食べに来てくれた。同じ職場、否、同じ夢の国でひとときを過ごしている仲間である。
三人の可愛い女子を一緒の楽しいひとときであった。まるで、デズニーシーにいるようだった。

明日は、初薬師。友人のお寺で檀信徒の方々に60分の話をさせてもらう。今日はへべのレケなので、何を話すかは、明日の午前中に決めることにした。昨年からの一年で何も話すことがないようなら、人としてアウトだと思う。
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如(し)くは無い。

「おっといけねぇ。塔婆を書いておかねぇと・・・」と、通称「為書き」と言われるどんな法事でも使える文字だけを書いておく塔婆を、50体書いた(塔婆の上のほうの刻みは、仏さまのカラダを表すので、塔婆は「本」ではなく、「体」と数えることがある)。

50体の「為書き」を書くのに、約二時間半。久しぶりに広沢虎造の浪曲を聞きながら書いた。落語も講談も浪曲も、元をたどればお坊さんのお説教だ。勉強にならぬはずはない。どはははは。
だから、その影響力もすさまじい。
久しぶりに会った方には「おっと、どうも。貧乏ひまなし、無沙汰ばかりで申し訳ございません」などと簡単に挨拶できるようになった。
初対面の方には「昨日今日の駆け出しモンで、ろくなご挨拶ができません。ご勘弁をいただきまして、以後、よろしくお見知り置き願います」なーんて、スラスラ言える。
こうした、やけに調子のいい言葉は、たくさん覚えておくに如(し)くは無い。明日はしっかり本を読んで過ごそうと思う。
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意識下の不安 と楽しみ

氷山は水面下に9割の氷があるという。水面上にあるのは、一割ということである。

 私たちの意識も似たようなものだ。現実に不安に感じるのは全体の一割程度。残りはいわゆる意識下にかくれている。潜在意識とも言われるし、仏教では、マナシキとか、アヤラシキとか言われる。
ここに不安の根源が隠れているらしい。見えない部分の不安を溶かさないと、不安は解消されないのだが意識できるのが、表面に出ている部分だから始末が悪い。両方に対処しないといけないからである。
意識下にあるのは、不安だけではあるまい。「楽しみ」もまたしかりである。「これ、楽しい!」と思っていることの下に隠れている「ほんとうはこれがしたいのです」というものがあるはずだ。それを見つけられると、楽しめるバリエーションがぐんと増えるはずだと思う。
さて、明日から、意識下の「不安」と「楽しみ」について、ちょっと集中して考えてみようと思う。
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かみだらけ。

 お正月番組も終わったので、仕方なく炬燵の前から住職室へ舞いもどった。そうしたら、2月のご詠歌の大会の記念品担当が私だったことを思いだした。
 8年前の大会の記念品だった、ご詠歌の唱え方テクニック本の復刻版を作ることになっている。
 印刷屋さんに出すにもデータがあやふやなので、24ページの冊子は、密蔵院で両面コピーして作ることにした。 B4の紙3枚を重ねて、四つに折って、上端を切断すると、できあがるという寸法である。ところがレイアウトが難しいのないのって。おかげで住職室はだらけである。

 これを350部作る。あわわわわわ。2400枚を越えるコピーである。きっと業者さんから「膨大な数がカウントされていますが、機械に何か問題もありましたか?」と電話がかかって来るに違いない。わははは。
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お節に決着。

 箱根駅伝を見ながら、お参りの檀家さんのお線香点けをしている三ヶ日。
 そろそろ読んでおいたほういい資料があるのだが、テレビやらピンポーンやらで、とても集中できない。どははは。
 ということで、使い勝手の悪い時間を見計らって、来年の写仏のお手本を描いた。金剛将菩薩という。軍隊の総大将みたいな仏さまである。ドドドドドドッ!

 今宵は、家内と二人で新年会だ。なんとか、お節料理に決着をつけたいと思う。
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蛇の特異性にあやかって。

蛇年である。否、巳年である。この不思議な生き物が干支に入っているのは、どう考えてもその成長の特異性が神秘に満ちているからだろう。
脱皮をするのだ。

さて、今年、私は今までの皮を脱皮できるだろうか。
あるいはまた、誰かのために、蛇のように一肌脱げるだろうか。
今年の抱負は以上の二点。「脱皮できるか」と「一肌脱げるか」である。
あなたは、いかがであろうか。脱皮するには、誰かのために一肌脱ぐのがもっとも手っとり早いかもしれぬ。
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