風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

鉄の女の涙・続

2012-05-04 13:04:59 | たまに文学・歴史・芸術も
 この映画を見て、あらためて日本の政治状況の貧困を思いました。最近、私のブログの更新頻度が落ちたのは、政治が批判の対象に値しなくなった(関西弁で表現すると、アホらしゅうてやってられん)ことにも原因があると、他人のせいにしてはいけないのですが、そうぼやきたくなります。
 サッチャー女史のような人が出て来たのは、イギリス政治の必然だろうと思います。さすがに今はどうか知りませんが、優秀な若者は政治を志す、何故なら主権は国民に存するのではなく、女王陛下と国会が半分ずつ握るから・・・そんなエリート主義の古き良き伝統が、辛うじて大英帝国のなれの果てにも生き残っているように思います。
 日本の行政も、江戸以来の伝統で、有能な人間に支えられて来ましたが、政治の世界からはいつの間にか(多分、戦争に敗れてから)武士がいなくなり、今では、統治能力の適格性がないまま政権交代を実現してしまった民主党と、野党としての適格性がないまま政権交代を許してしまった自民党の、ある時には慣れ合いで裏で手を握り、それ以外にはたいてい足を引っ張り合う醜い泥仕合・・・いわば茶番ばかりが続く有様です。かつて高度成長を達した頃は、経済は一流、政治は三流、と蔑まれ、経済が二流に堕しかねない今もなお、手を拱いている政治は、ポピュリズムを至上として政局しか頭になくて、その無力ぶりは明らかです。かつて、小沢さんには期待したことがありましたが、すっかり色褪せてしまって、今、彼の頭の中を床にぶちまけると、選挙戦術と数のことしか出てこないのではないか、そして最後に、その中心に居座っている「怨念」がコロコロと転げ落ちてくる、そんなイメージを抱いてしまいます。政界で何か仕掛けようとする気持ちは分からないではないですが、政治理念やら信念らしきものはあるようでいて、その実、選挙のための方便としか思えず、いずれ面が割れると、いつもの破壊屋の本領が発揮されるだけのようで、ちょっとがっかりです。そういう意味で、過激な言説を繰り返す石原都知事や、一見(と一応言っておきます)チンピラ風の橋下市長にまがりなりにも人気があるのは、理由があります。今の日本で待望されるのは、サッチャー女史のような「信念」の政治家だからです。
 政治のせいばかりにしていてもラチが明かないので、日本の政治状況は、翻って日本の社会的な成熟の後れを反映しているのではないかと考えてみることにしましょう(実は私の時事ブログは、そういうコンセプトで書き続けてきたつもりです)。
 政治家一人ひとりの資質には若干疑問があるにしても(実際に、新進気鋭の女性作家が、政治家のインタビューを通して、政治家にならずとも企業社会で成功していたであろうと思えるような人は少なかったと、女性的な感性で率直な印象を述べていました)、企業にしても、官僚にしても、一人ひとりはとても優秀なのに、組織になるとまるでダメなのは、一体どうしたことでしょう。そこに日本の社会再生のカギがあるように思います。日本的なリーダーシップ論や組織論は、欧米との比較で終わる一種の文化人類学に過ぎなくて、かくあるべしという、高みを求める芸術論にはなかなかなり得ません。なんとなく引き籠りがちの昨今の日本人は、所詮は日本人なのだと開き直る傾向がある上に、昨年来、東日本大震災を乗り越える中で、日本的な価値観が見直されて、益々、世界の潮流から離れているのではないかと思えてなりません。
 戦後の日本は、どうも国家や社会を担う人材を育てることを、そうしたリーダーを受容し機能させる組織や社会システムを構築することを、真面目に考えて来なかったのではないでしょうか。「末は博士か大臣か」という価値観も、完全に過去のものになりました。反論が出て来るであろうことを承知で言いますが、今の受験制度は、記憶力だけでなく、高等教育を受けるに足る基本的な資質を問う点ではよく出来ていると私は思っていて、勿論、それが必要条件ではあっても十分条件とは言えませんが、(もしかしたら上位のエリート的なところだけかも知れませんが)素材を見分ける“ふるい”にはなっていると思います。しかし、素材の良さだけで世の中を担えるわけではありません。素材を、意識的な訓練を通して磨くことによって、国家や社会を担う人材に育てなければならない。これまでの日本は、それを企業社会(やそれぞれの社会)の自律的な体制に任せて来ました(国としては何もしないで、よきにはからえ、といったところでしょうか)。企業社会は、それに応えて、時間とカネをかけて、若者を、良い意味で遊ばせて来ましたが、多くの優秀な企業戦士を輩出して来ただけでした。そういう点では、政治の世界はもっと貧困なのは想像に難くありません。教科書的な意味で(つまり日本的ではないという意味で)、政治家の器量を育てるシステムがあるとは思えませんから(それでも、かつての自民党政治は、派閥の長を経験させることによって、それなりにムラオサ的なリーダーを育てることは出来たと思います)。
 ところが、冷戦崩壊と真の意味でのグローバル化が進展する中で、日本経済が長らく停滞する昨今、企業社会にそういう余裕はなくなって来ました。政治も停滞し、世間の信認を失って益々特異な世界へと孤立し、政治の世界だけではもはや変化を期待できないといったような諦観に支配されています。そして相変わらず公と私の領域は、水と油のように混じり合うことなく離れたまま。こうした、日本の社会のそこかしこで見られる制度疲労、ある種のダイナミズムの退潮に、大いなる危惧を覚えるのは私だけではないと思います。今こそ日本は、国家や社会を担う人材と意識を育てることを、真剣に考えるべきだと思います。「お上」と呼んで遠ざける私たちの意識を変え、社会を担うのは私たち一人ひとりだという意識を変えない限り、そして、そうした中から国家や社会を担うリーダーが育って来ない限り、社会的な成熟にはほど遠いように思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄の女の涙

2012-05-03 11:53:43 | たまに文学・歴史・芸術も
 「鬼の目にも涙」とは言いますが、「鉄の女の涙(原題:The Iron Lady)」などと、原題にない「涙」という言葉を加えた意図は何だろう・・・とつらつら思います。マーガレット・サッチャー女史が、2002年頃から認知症がひどくなり、公式の場に出ることを控えるよう医師からアドバイスされていたことが、娘さんの回顧録で明らかになり、イギリス社会に少なからぬ衝撃を与えたのは、4年ほど前のことでした。当時のロイター記事によると、2003年に夫が他界したことすらもたびたび忘れ、そのたびに悲しい事実を説明しなければならなかったことが娘さんにとって最も辛かったと述べています。その回顧録をもとに制作された映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を、アメリカ出張から戻るJAL機内で見ました。
 イギリスはもとより西洋社会で初の女性首相となったサッチャー女史も現在86歳だそうです。現役時代(1980年代)の彼女について、実はナマの記憶が余りないのですが、私が敬愛する大学の教授が単独インタビューで、彼女の新自由主義的な経済政策のことを「所謂サッチャリズム」と呼んだのに対して、「ソーシャリズムなんかじゃない!」と凄い剣幕だったことは、今もなおありありと懐かしく思い出します。一国(しかも大英帝国のなれの果て)の宰相を相手にするのですから、英語は上手いに越したことはありませんが、英語を母国語としない一介の東洋人学者の拙い英語(一応ハーバード大学に留学したことがあるのですが)に対しても情け容赦ないあたりは、さすが「鉄の女」と呼ばれるだけあって激しい性格だと、妙なところで感心したものでした(そもそも彼女の経済政策を社会主義的などと評する学者がいるとは到底想像できませんので、せめて英語を聞き直すくらいの余裕があっても良かっただろうにと思いますが・・・)。
 そのサッチャー女史は、首相時代、国有企業の民営化や規制緩和を断行し、当時、長らく労働党政権下でイギリス病と呼ばれた国際競争力の低下と経済の停滞を克服しようと奮闘し、それなりに成功したように思いますし、レーガン大統領のレーガノミックスと併せて、アングロサクソン的な市場原理主義は、共産主義体制を崩壊に導くボディブロー以上の効果があったと思いますが、失業率は下がらず、経済格差はむしろ広がり、昨今の新自由主義批判の風潮の中ではなおのこと毀誉褒貶が激しい政治家です。いずれの評価に傾くにしても、その後のメージャー政権はともかく次の労働党ブレア政権を通して、サッチャー女史の基本路線を踏襲しつつ是正措置を講じる「第三の道」を歩ませることになったという意味で、影響力ある歴史的な政治家だったことは確かだと思います。
 この映画は、認知症を患う現在のサッチャー女史が当時との間を行き来しながら半生を振り返る展開ですが、歴史的偉業を支える裏面史とも言うべき内面が切々と綴られるのかと思いきや、専業主婦にはなれないと宣言して政治家を志しつつも家庭の主婦でもあろうとし続けたという意外な一面はあったものの、正直なところ、なるほどと唸らせるようなスリルは感じませんでした。ただメリル・ストリープの迫真の演技は素晴らしく、存在感が圧倒的でした。一言で総括するならば、メリル・ストリープの貫録勝ち、といったところでしょうか。惜しむらくは、JAL機内の映画は字幕ではなく吹き替えになっていて、吹き替えが下手とは言いませんが、原作の面白みを相当奪っていることは間違いありません。昨年、NYからの帰国便で見た国王ジョージ6世の成長物語「英国王のスピーチ」の吹き替えに至っては、折角のどもりの演技が台無しでした。いやしくも“国際”線を運航するJALには、機内食に和食を出してくれるのは嬉しいですが、映画の吹き替えは是非とも善処して頂きたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サクラ咲く

2012-05-02 11:00:54 | 日々の生活
 長野県安曇野にゴルフ合宿に行って来ました。合宿とは、一泊二日で2ラウンドもしたので、そう称しているだけのことです。学生時代には、バッグを担いで歩いて三日間6ラウンドなんてへっちゃらでしたが、この歳にもなると、二日間たった2ラウンドでも、まともにやりおおせません。初日のハーフは薄暮プレイで、クラブをカートに載せて歩いたまでは良かったのですが、二日目の1.5ラウンドはカートに乗るおじさんゴルフで、既に前日のハーフの後遺症で肩が張っていたため、出だしは荒れて、身体がほぐれて調子よくなったのも束の間、23ホール目(通算32ホール目)あたりからは腰砕けで、へなちょこショット連発という体たらくでした。
 それでも、ちょうど二年前の4月30日、飯能の某ゴルフ場15番の砲台グリーンを駆け上る途中に、ぶちっと肉離れを起こして以来のコースだったので、たとえ軟弱合宿であろうと耐えられるかどうか正直なところ不安があって、今は全身疲労が心地よいほどです。
 ゴルフと言うと、どうしても朝早くて夜遅く、渋滞に巻き込まれるなど、とかく行き帰りが憂鬱なものですが、出発の30日は三連休の三日目、朝9時に調布インターから入った下り中央高速は空いていましたし、帰りの5月1日は平日の夕方ながら、都心に向かう中央高速は空いていて、狙い通りだったとは言え、まさかここまで狙いが的中することになろうとは却って驚いたほどでした。首都圏の道路事情がいつもこんな調子だったら、どんなに暮らしやすいことだろうかと、普段のストレスの多い生活を恨めしく思いました。
 そして当地は、山の上にありながら風がなく、陽射しも強くなければ雨もなく、寒くもなければ暖かくもなく、半袖のポロシャツでのびのびプレイをしてちょっと汗ばむ程度の絶好のゴルフ日和で、気心の知れた友人とのラウンドは、何よりの気分転換になりました。
 ・・・と、随分、前置きが長くなりましたが、今回の隠れたお楽しみは、桜が満開だったことでした。ひと春に二度楽しめる、まさにグリコで、さながら二度と会えないと思って別れた人にばったり巡り会えたような驚きと懐かしさを満喫しました。
 上の写真は、ご覧の通りの花曇り。9番ホール(多分)のサクラ、咲く(5月1日撮影)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする