風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

グライダーと飛行機

2010-03-05 02:01:49 | 日々の生活
 以前、オーストラリアをはじめとする海外の学校の授業は、日本のように教科書に沿って授業を進めると言うよりも、授業において教師の裁量に委ねられる部分が大きく、日本以上にアカデミックな世界を覗かせたり実学的な興味を満足させたりするものが多いということに触れました(1月17日のブログ、http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20100117)。
 実は、上の子(中学三年)は、日本に帰国した当初、学校の授業がつまらないと、毎日こぼすので、どうせ英語の授業が簡単過ぎてつまらないのだろう、あるいは日本語が分からなくてついていけないだけだろう、だからその内慣れるだろうと高をくくっていたのですが、どうもそればかりではなく、授業の進め方そのものがつまらないようでした。いろいろ話を聞き出そうにも、うまく表現できないようですし、受験モードの日本の中学三年と現地の中学一・二年を比べるのはフェアではありませんが、私の想像力で補って解釈してみます。 
 誤解を恐れずにちょっと単純化すると、日本の授業は、教科書だけでなく、プリントを配ったりもするようですが、十年一日、基本は詰め込み教育ですね。教科書に書いてあること、参考書にもっと詳しく書いてあることを忠実に覚えて、余計なことはせずに、テストで良い点を取れば、学校的には良い子になります。他方、海外では、教科書を中心とする授業に重きを置かれません。テーマを決めて、子供たちに調べさせて、みんなの前で発表させる、といったようなことや、最近は日本でも見かける総合学習のようなことが、海外ではごく当たり前に行われています。明らかに授業における教師の自由度が大きく、工夫の余地があります。しかも宿題が多く、出来る子にはどんどんやらせ、出来ない子はそれなりに置いておかれます。課外活動も多い。そういった機会には親もボランティアで借り出されることが多く、いわば教師とは運命共同体で、日本の一部で問題になっているような“モンスター”ペアレントは、いなさそうで、教師が萎縮することもなさそうです。
 こうした違いを総括するのに、外山滋比古さんが、グライダーと飛行機の違いを比較しているのが参考になります。グライダーは、位置エネルギーや風力エネルギーによって飛びますが、自ら推進力を持ちません。いわば学校の先生に導かれるまま、ついて行くイメージ、すなわち個人の意思や個性の違いは考慮されず、一方通行の授業という形で知識を伝授する教育のありようはグライダーを育てるものと言えます。他方、飛行機はエンジンを積み、自らの意思で飛びます。各人に問題を設定させ、個性や能力に応じて調べ考えさせて、双方向のコミュニケーションの中で、何らかの解決策を見出すように仕向ける教育のありようは、飛行機を育てるものと言えます。前者は、一つの答えに到達することを良しとするものであり、後者は、答えは実はいろいろあって、それが論理的に説得的に説明されていれば良しとするものです。
 どちらもそれなりに重要だと思いますが、日本の教育は片方に傾斜し過ぎており、海外の教育はもう片方に傾斜し過ぎていると言えます。そして、学校でどちらの訓練を受けているかによって、将来、社会に出てからの仕事の選び方、進め方のありようをも決めているように思います。日本では、大企業に就職することが成功の証であり、企業の中で再び丁稚から始めて修行を積んで一人前になるまで鍛えられます。他方、アメリカや日本を除くアジアでは、むしろ起業が成功の証であり、自ら新しい道を開拓します。今の日本の閉塞感は、いろいろな問題が指摘されますが、例えばカイゼン(改善)は行なえても、パラダイム転換を惹き起こせない自立精神の欠如は、教育制度にも起因するように思います。
 こんなことをつらつら思いながら、子供の目から見ると、自分はなんとツマラナイ授業を受けてきたことかと思います。それが私個人の経験ではなく、実際に何十年、何百年と行われて来た現実の重みを、かみしめます。
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