風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

六十五回目の夏(9)砲艦サンパウロ

2010-12-04 12:45:39 | たまに文学・歴史・芸術も
 六十五回目の夏と言いながら12月に入ってしまいました。
 二週間ほど前、東大の学園祭で講演した鳩山前総理は、「理念としての友愛を、政府として堂々と掲げていくべきだ」と述べ、「メディアでは、鳩山が日米関係をめちゃめくちゃにしたという記事がたくさん出ているが、めちゃくちゃになっていない」と反論しました。もはや総理大臣ではないとはいえ、前総理として政権与党の重鎮と見なされるであろう人が、ここ数ヶ月で国際環境の荒波に晒されてなおこのような認識を変えていないのがなんだか不思議ですが、後者の根拠になっているのが、その日の朝、米国大使館を訪ね、ルース駐日大使と一緒にアメフトの試合をテレビ観戦したエピソードだというのですから、呆れてしまいます。普通、我々は、xxx(敢えて伏字)は、個人的につきあうと良いのだけど、国としてはね・・・なんて言い方をするものですが、この方は何かにつけ国家関係と個人関係との混同が甚だしいし、むしろその違いの機微を理解したくないもののようです。
 昨今の荒波の最大の発生源である中国は、尖閣問題だけではなく南シナ海でもベトナムやマレーシアを相手に領土紛争を仕掛け、日本だけでなく欧米諸国に対してもレアアースの輸出制限を行い、ノルウェーはじめ諸外国へも民主活動家のノーベル平和賞受賞を巡って高圧的な態度を見せてきました。さらに、自らの体制を守るためには国民が飢えても核開発を続け、哨戒艦を沈没したり韓国本土を砲撃してまで瀬戸際外交を続ける北朝鮮を、中国は見殺しにすることなく陰で支援し続けます(ウィキリークスを見ていると、最近の中国は必ずしも北朝鮮の動きを制御出来ていないように見えますが)。一方で、日・米・韓といいながら、韓国も気を許しているわけではなく、歴史問題では、中国・韓国・北朝鮮ともに反日で共通します。「友愛」が国家間のおつきあいを円滑化することは疑いませんが、だからと言って「友愛」だけでは何ら根本的な解決に至らないこともまた明らかでしょう。それにも係らず、左翼思想育ちの仙谷氏や菅氏は、中国に過剰に配慮して、国益を毀損すること甚だしいと批判されて来ました。
 こうした対中協調外交を見ていると、戦前の幣原外交との類似性を思い、あの時も中国は反日どころか侮日行動はとどまることを知らず、あの時は結局、嫌がる日本を大陸での戦争に引き摺り込み、英米との衝突へと誘導し、挙句に太平洋戦争が不可避となり、最終的に日本が国家として破滅するに至った苦い歴史が思い出されて、暗澹たる気持ちになります。とりわけ幣原外交の対中宥和さらには無策・弱腰ぶりが英米との関係悪化を招くきっかけとなったのが、1927年の南京事件です(チェンバレンのイギリスによるヒットラーへの宥和策が、彼を増長させ、第二次大戦の遠因になったことが連想されます)。
 南京事件と言えば1937年の南京大虐殺が有名ですが、これは今なお犠牲者の数が定まらず、アメリカが犯した戦争犯罪である原爆投下以上の犯罪にでっちあげようとした東京裁判や、更に南京で行われた国民政府国防部戦犯軍事法廷など、敗戦後に日本を裁く軍事法廷で誇大広告されたもののようですが(昭和41年9月に岸元首相の名代として5名の日本人台湾使節団が訪台したときに、その内の一人、松井大将の秘書だった田中正明氏に対し、蒋介石は、南京に虐殺などなかった、松井閣下には誠に申し訳ないことをした、と告白したと伝えられますが、その当否はともかく、蒋介石が終戦に至るまで行っていた中国人向けラジオ演説で大虐殺に触れたことはなかったようですし、1937年当時、12月5日に南京にいたロンドン・タイムスのマクドナルド記者をはじめとして、日本軍の非道が国際的に報道されていなかったのは事実のようです)、この1927年の南京事件はホンモノです。
 1927年4月、蒋介石が南京で反共クーデターを起こし、左派の武漢政府に対抗して右派の国民政府を樹立する渦中で、国民革命軍や中国人暴徒が、英米領事館を襲撃したのをはじめ、租界の商店や企業を焼き討ち・略奪し、外国人居留民に暴行を加えたため、これに激怒した英米両国が報復のために暴徒に向けて砲撃するという、この事件の模様が、スティーブ・マックイーン主演映画「砲艦サンパウロ」に描かれています。この時、自衛のため日本も一緒に立ち上がり行動するよう英米から呼びかけがあったにも係らず、日中友好を害するとして砲撃に参加せず、これが却って、日本には野心があって、中国と裏でつるんで抜け駆けするのではないかというような疑念を、英米両国に抱かせ、英米からは孤立していくとともに、中国からは弱腰と見られて、以後、中国革命運動や過激化する中国のナショナリズムの標的になって、大陸進出は泥沼化して行きます。
 加瀬俊一氏は、1945年9月2日、降伏文書調印式で、重光葵外相ら全権団に随行し、戦艦ミズーリ上に居合わせたのをはじめとして、戦前・戦後の激動期に外交官として活躍し、後に初代国連大使や外務省顧問を歴任した方です。私がまだ20歳前後のみそらで、氏の自伝を読んで外交官を夢見たこともあったように(でも出自が良いわけではないので実際になれるとも思わず諦めて勉強もしなかった)、私の人生の初期に嗜好という点で小さからぬ影響を与えた一人ですが、100歳を越えて回顧(101歳で永眠)された「あの時『昭和』が変わった」(光文社)を読むと、「私は歴代の外務大臣の信任が厚かったために、誰よりも秘書官生活が長かった」などとぬけぬけと述べるほか、誰の発言なのかよく分からない大言癖があるのが玉に瑕です。そんなわけで、彼自身の見方なのか、あるいは近くでお仕えしたやんごとなき方に触発されたのかは分かりませんし、回顧録ほど真実を糊塗して眉唾なものはないのですが、その書の中で、「中国が混乱していたことが、日本と英米をして、太平洋戦争を戦わせた」と述べています。確かに、日米交渉の終盤でアメリカの態度を硬化させる決定的な影響を与えたのが1941年7月の南部仏印進駐で、これは英米蘭からの経済封鎖に耐えかねて資源獲得を目指すとともに、英米の援蒋ルートを断つことを狙うものだったというように、太平洋戦争の淵源は中国大陸にあります。日本が中国市場を独占しアメリカを排斥しようと企てたことで、門戸開放主義を掲げるアメリカと衝突し、日本が期せずして中国大陸に果てしなく戦線を拡大するうちに、揚子江沿岸のイギリスの権益を侵すまでになりました。さらには、「英米が、中国が巨大市場であるという誤った幻想を抱いていたことが、戦争の要因となった、これは今日、先進諸国が中国市場へ過大な夢を描いていることと変わりがない、私は今後、中国の安定が長く続くまいと思う」とも述べていますが、それは余談です(私も同感ですが)。氏が親英米派で、当時はどちらかと言うと疎外されたであろう僻みもあるでしょうし、貴族趣味のところもあって、多少、割り引いて見る必要があると思いますが、当時の外交の前線にいて現場を知る声としては貴重です。
 さて、現代に話を戻して、鳩山さんが友愛を語った勇気には感服しますが、やや時期尚早でした。中国をはじめ北東アジア情勢の難しさと、外交下手の日本の両方を掛け合わせると、国際協調を旨として当たることが重要であることが歴史の上からも看取されます。その時々の「国際」がどこであるかは問題ですが、それが日本として生きる道なのだろうと思います。
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