今はまだ二重国籍で、日本語よりも英語の方をスラスラ喋る彼女が、日本登録で活動するにはワケがあると、日刊スポーツの記事にあった。
5年前の東レ・パンパシフィック大会で出場選手をチェックしていた日本テニス協会の女子代表コーチだった吉川真司氏は、予選1回戦で敗退した15歳の大坂に目が釘付けになったそうだ。「すごい才能だと思った」という吉川氏は、早速、当時の女子代表監督や強化本部長に報告し、以来、彼女が日本に来たときには、味の素NTCで練習できるように取りはからうなど、地道な支援を続けてきたという。他方、彼女は米国テニス協会のジュニア大会によく出場していたが、目立った成績は残しておらず、言わば埋もれた存在だったので、米国協会に支援を申し込んでも取り合ってもらえなかったらしい。転機になったのは3年前の全豪で、彼女が3回戦まで勝ち進むと、今度は米国協会から強烈なアプローチを仕掛けてきた(つまり多額の支援を申し出た)そうだが、彼女のお父ちゃんは、無名時代から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重したということだ。
ラケットだけでなくウェアやシューズも提供するヨネックスとの関係も、なかなか感動的(神秘的?)だ。
ヨネックスが彼女の支援を始めたのは、彼女がまだ10歳の頃だったそうだ。ヨネックスには国内外を問わず、ジュニア選手から用具などのサポート要請が多数届くらしく、国内であれば、ジュニアの地方大会や全国大会での活躍など一定の実績をもとに、海外であれば、コーチや関係者を通して選手の状況をヒアリングするなどして、支援をするかどうかを判断しており、そんな中に大坂選手のお母ちゃんからの手紙があって、ヨネックス米国支社のスタッフが、彼女が出場するトーナメントを観戦し、「まだ荒削りだが、パワーはすごい。このパワーの可能性にかけたい」と評価し、支援を上申したという。当時の現地スタッフは既に退職しているため詳細は不明だが、関係者によれば、それまでの出場試合やトーナメントの実績だけで判断するならば、やはり(米国協会の判断と同じく)通常なら契約するレベルにはなかった可能性があるということだ。
そうは言っても、ラッキーな星のもとに生まれたというより、若い頃から(今でも十分に若いが)彼女にはどこか人を惹きつけるものがあったのだろうと思う。
彼女は大阪で生まれて3歳の頃にアメリカに移住し、どうでもいいことだが私も鹿児島に生まれて3歳の頃に大阪に引っ越して、私の本籍は鹿児島のままである(彼女が日本語を話すようには私は鹿児島弁を話せないが)。記憶は殆ど残っていないのは彼女も私も同じだが、彼女にとっては、お母ちゃんが日本の料理や文化をなにくれとなく伝え続けてきたからこそ「私のメンタリティーは日本人に近い」と認識するようになったというし、私にとっては、両親が鹿児島弁まるだしで喋り、根っからの鹿児島人の母の料理で育ち、鹿児島の産品が送られて来ては舌鼓を打ち、私のルーツは鹿児島(の薩摩半島の先っぽのど田舎)であることをいとおしく思うようになった。海外駐在するにあたって戸籍抄本だか謄本を取り寄せたとき、珍しがって、(余り仕事がないせいか)電話で話し込んで、大丈夫かいな・・・と心配するには及ばず、離れていて不便とは言え対応は早かった(笑)。煎じ詰めれば、生まれは勿論のこと、その後に続く「縁」なのだろうと思う。僭越ながら、彼女が日本を思う気持ちはなんとなくよく分かるのだ。
5年前の東レ・パンパシフィック大会で出場選手をチェックしていた日本テニス協会の女子代表コーチだった吉川真司氏は、予選1回戦で敗退した15歳の大坂に目が釘付けになったそうだ。「すごい才能だと思った」という吉川氏は、早速、当時の女子代表監督や強化本部長に報告し、以来、彼女が日本に来たときには、味の素NTCで練習できるように取りはからうなど、地道な支援を続けてきたという。他方、彼女は米国テニス協会のジュニア大会によく出場していたが、目立った成績は残しておらず、言わば埋もれた存在だったので、米国協会に支援を申し込んでも取り合ってもらえなかったらしい。転機になったのは3年前の全豪で、彼女が3回戦まで勝ち進むと、今度は米国協会から強烈なアプローチを仕掛けてきた(つまり多額の支援を申し出た)そうだが、彼女のお父ちゃんは、無名時代から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重したということだ。
ラケットだけでなくウェアやシューズも提供するヨネックスとの関係も、なかなか感動的(神秘的?)だ。
ヨネックスが彼女の支援を始めたのは、彼女がまだ10歳の頃だったそうだ。ヨネックスには国内外を問わず、ジュニア選手から用具などのサポート要請が多数届くらしく、国内であれば、ジュニアの地方大会や全国大会での活躍など一定の実績をもとに、海外であれば、コーチや関係者を通して選手の状況をヒアリングするなどして、支援をするかどうかを判断しており、そんな中に大坂選手のお母ちゃんからの手紙があって、ヨネックス米国支社のスタッフが、彼女が出場するトーナメントを観戦し、「まだ荒削りだが、パワーはすごい。このパワーの可能性にかけたい」と評価し、支援を上申したという。当時の現地スタッフは既に退職しているため詳細は不明だが、関係者によれば、それまでの出場試合やトーナメントの実績だけで判断するならば、やはり(米国協会の判断と同じく)通常なら契約するレベルにはなかった可能性があるということだ。
そうは言っても、ラッキーな星のもとに生まれたというより、若い頃から(今でも十分に若いが)彼女にはどこか人を惹きつけるものがあったのだろうと思う。
彼女は大阪で生まれて3歳の頃にアメリカに移住し、どうでもいいことだが私も鹿児島に生まれて3歳の頃に大阪に引っ越して、私の本籍は鹿児島のままである(彼女が日本語を話すようには私は鹿児島弁を話せないが)。記憶は殆ど残っていないのは彼女も私も同じだが、彼女にとっては、お母ちゃんが日本の料理や文化をなにくれとなく伝え続けてきたからこそ「私のメンタリティーは日本人に近い」と認識するようになったというし、私にとっては、両親が鹿児島弁まるだしで喋り、根っからの鹿児島人の母の料理で育ち、鹿児島の産品が送られて来ては舌鼓を打ち、私のルーツは鹿児島(の薩摩半島の先っぽのど田舎)であることをいとおしく思うようになった。海外駐在するにあたって戸籍抄本だか謄本を取り寄せたとき、珍しがって、(余り仕事がないせいか)電話で話し込んで、大丈夫かいな・・・と心配するには及ばず、離れていて不便とは言え対応は早かった(笑)。煎じ詰めれば、生まれは勿論のこと、その後に続く「縁」なのだろうと思う。僭越ながら、彼女が日本を思う気持ちはなんとなくよく分かるのだ。