風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

読書三昧

2017-01-04 00:02:07 | 日々の生活
 今年の正月は、ほとんどテレビを見ることなく、隆慶一郎氏の小説を堪能していた。もっとも読書三昧と言ってみたものの、読むのが遅いので、「風の呪殺陣」と「死ぬことと見つけたり(上)/(下)」の二作品で、粗密はあるが1000頁弱程度ではある。
 余り知られていない作家ではないかと思う。既に平成元年に亡くなられ、しかも、長く本名の池田一朗名で脚本家として活躍された後、隆慶一郎名での作家活動は僅かに晩年の5年(1984~89年)に過ぎないからだ。しかし、還暦を過ぎてから書き始められた数少ない時代小説は、網野善彦氏らをはじめとする最新の中世近世史研究を取り入れ、中世以来の「道々の輩」(無縁となって天下を放浪し、一切の関渡津泊、つまり街道の関所も港も全て通行税を払うことなく手形もなしで通行することを許され、「上ナシ」を標榜し一切の支配を認めない自由の民)を登場させ、その精神の自由がモチーフとして全ての作品に貫かれており、他の作家とは一線を画す。描かれるのは、戦国の世や江戸の封建制のしがらみのもとに生き、権力に抗いつつ義に殉ずるも自分らしさを失わない、孤高の男たちの生き様だ。
 なにしろWikipediaで挙げられている刊行済み小説は14冊しかないため、既に購入済みで、急ぐことなく、忘れた頃に手に取っては気ままに読むことにしている(しかし二作品もいっぺんに読んでしまうと、いよいよ残り少なくなってきた)。この二作品は、急逝されたため、いずれも未完のままだが、それでも期待を裏切らない。
 「風の呪殺陣」は、魔王・信長による比叡山焼き討ちによって、阿闍梨への道を断たれた修行僧と、家族を失った山門公人衆の若者の、その後の信長殺害に賭ける復讐劇で、実際、「仏教が人を殺すかッ」と赤山禅院の叡南覚照大阿闍梨に作者自身が一喝され、改稿する予定なるも、急逝によってそのまま発刊されたという、いわくつきの作品である。信長の性格描写が短いながらも秀逸で、本能寺の変の解釈も、多少戯画的ではあるが、伝奇的要素に包まれて味わい深い。
 「死ぬことと見つけたり」は、文字通り「葉隠」をモチーフにした佐賀・鍋島藩の物語だ。いきなり主人公が猛虎に襲われる夢で始まり、毎朝、「死ぬ」のが佐賀藩士独特の心の鍛錬と説かれて、度肝を抜かれる。「死ぬ気」になれば何でも出来る…と言われることを日々実践する、常住坐臥、というわけである。以下、本書から抜粋する。

(引用) 朝、目が覚めると、蒲団の中で先ずこれをやる。出来得る限りこと細かに己れの死の様々な場面を思念し、実感する。つまり入念に死んで置くのである。思いもかけぬ死にざまに直面して周章狼狽しないように、一日また一日と新しい死にざまを考え、その死を死んでみる。新しいのが見つからなければ、今までに経験ずみの死を繰り返し思念すればいい。
 不思議なことに、朝これをやっておくと、身も心もすっと軽くなって、一日がひどく楽になる。考えてみれば、寝床を離れる時、杢之助(注:主人公)は既に死人(しびと)なのである。死人に今更なんの憂い、なんの辛苦があろうか。世の中はまさにありのままにあり、どの季節も、どんな天候も、はたまたどんな事件、災害も、ただそれだけのことであった。楽しいと云えば、毎日が楽しく、どうということはないと云えば、毎日がさしたる事もなく過ぎてゆく。まるですべてが澄明な玻璃の向うで起っていることのように、なんの動揺もなく見ていられるのだった。己れ自身さえ、その玻璃の向うにいるかのように、眺めることが出来る。(引用おわり)

 思い余って四半世紀前に買って積読のままだった「葉隠」(神子侃訳、徳間書店)をやおら取り出し読み始めた。
 佐賀鍋島藩士・山本常朝(1659~1719)が武士としての心得を口述し、同藩士・田代陣基(つらもと、1678~1748)が筆録してまとめたもので、原本は既になく、いくつかの写本が今に伝わるのみだという。「此の始終十一巻、追て火中すべし」という常朝の談話を記述した写本があるほどで、公刊を目的としたものではなく、佐賀藩の藩校でも教科書に用いられず、手から手へ写し伝えられてきた秘本だったと、神子侃氏は解説する。口述・筆録された時点で既に徳川開闢以来100年が過ぎた安定期にあり、そんな太平ムードの中で、常朝は忘れられつつある草創の精神を、身近に仕えた二代藩主光茂や戦国生き残り老人たちからその厳しさを汲み取り、語ったものだという。もとより、死を美化したり自決を推奨したりするような印象があるのは、戦時中の軍が都合よく利用したものであって、むしろ「単なる修養書ではなく、集団共通の目的を遂げるための個人のあり方、その心構え、さらには生活技術的な処世術までが具体的に記されている」(同解説)という。折に触れ、ことに触れての断片的な語録で、全11巻1343項に及ぶ膨大なものながら、私たちが知るのは小説のタイトルにもなっている「武士道とは死ぬことと見つけたり」くらいで、鍋島藩主の後裔である鍋島直紹氏は、「論語読みの論語知らず」ならぬ「葉隠知りの葉隠読まず」と言い、案外「葉隠」の成立過程やら、その全文を読んでいる人は少ないだろうと言う。初めて世に刊行されたのは明治39年、しかも武士道のところを主とした抄本で、全文が刊行されたのは更に10年後の大正5年というから、それほど古いことではない。
 さて、上に引用した文章は、「葉隠(聞書第11)」に言う「朝毎に懈怠なく死して置くべし・・・」に呼応する部分で、Wikipediaは「常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。(中略)同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い」という。しかし、「当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を『上方風のつけあがりたる武士道』と批判しており、忠義は山鹿の説くように『これは忠である』と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには『死ぐるい(無我夢中)』であるべきだと説いている」(Wikipedia)のだそうで、どちらかと言うと異端的な扱いを受けていたようだ。我々がこれまた断片的に知る新渡戸稲造の「武士道」とも異なっているとされ、隆慶一郎氏は小説の中で戦国の世の「いくさびと」の現実主義をしばしば登場させているところからしても、観念化された武士道というより、どちらかというと原初的な素朴なものではないかと推測する。
 多少の異同はあれ「武士道」は潔さとか清らかさという意味でなんとなく神道と相性が良いように思う。そのためか、年があらたまり、心も浄められたような気がするこの時期に、つらつら「葉隠」を読んでいると、ストンと腹に落ちて来て、ちょっと背筋を伸ばしたくなるから、なかなか妙な新年の一風景である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする