風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

千代の富士 逝く

2016-08-06 19:32:33 | スポーツ・芸能好き
 元・横綱千代の富士の九重親方が亡くなった。
 お相撲さんには珍しく引き締まった美しい身体をしていた。身体能力の高さはつとに知られており、中学時代は陸上・跳躍の地方大会で優勝し、将来を嘱望されるほどだったらしい。気性の激しさも人一倍で、他の力士がなんとなく鈍重な牛に見えてしまうのに対して、小兵ながらも筋肉質で敏捷な動きと、目つき鋭く、精悍な顔立ちは、まさに「ウルフ」の愛称に相応しかった。
 そんな性格そのままに、力任せの強引な投げを得意としていたが、「先天的に両肩の関節の噛み合わせが浅いという骨の形状から来る肩(左肩)の脱臼が顕在化」(Wikipedia)したため、肩の周辺を筋肉で固めるようにと医師に勧められるまま、毎日500回の腕立て伏せやウェイト・トレーニングに励んで脱臼を克服し、以後、脇を締めて肩への負担を抑え、前廻しを取って一気に寄り切る、スピード感溢れるスタイルを完成させて行く。
 そして1981年という年には、一月場所に関脇で優勝して大関に昇進し、大関3場所目の名古屋で優勝して横綱に昇進し、更に、新横綱の九月場所こそ途中休場する憂き目に遭ったが、九州場所で横綱初優勝を遂げ、同一年内に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の珍しい記録を達成した。このとき千代の富士25~26歳の勢いを感じさせた。その後、度々ケガに泣かされたが、円熟味を加えた1980年代後半(29~33歳)には年の半分以上で優勝する黄金期を迎える。幕内807勝(歴代3位)、通算1045勝(歴代2位)、横綱在位59場所(歴代2位)、幕内最高優勝31回(歴代3位)を記録し、1989年には角界初の国民栄誉賞を受賞して、「小さな大横綱」の名をほしいままにした。
 濃い眉毛に勝負師らしいきりっとした良い目の端正な顔立ちで、その雄姿も、ただ立っているだけで美しいだけでなく、足を高々とあげる均整のとれた四股を踏んで美しかった。優勝決定戦に出場した6回全てで勝利して優勝するなど、ここ一番での勝負強さも抜群だった。中でも忘れられないのは、1989年の名古屋場所、左肩ケガで休場明けだった上に、生後間もない三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くした直後で、精神的にも打ちひしがれ、場所中は数珠を首にかけて場所入りする悲壮な姿が涙を誘った。そして千秋楽、北勝海との史上初の同部屋の横綱同士による優勝決定戦に持ち込み、勝利してまな娘の供養をしたのだった。今ではお馴染みの光景となっているが、優勝力士が支度部屋で賜杯を抱き夫人や子供と記念撮影するようになったのは、千代の富士からとされる。勝負を離れた後の清々しい笑顔がまた印象的だった。千代の富士によって相撲の魅力が倍加したのは間違いなく、当時を知るだけに、昨今の角界を物足りなく思うのは私だけでなく、久しく日本人横綱が出ない惨状を、千代の富士はどんな思いで見つめていたことだろう。
 享年61。余りに突然で、早過ぎる死が惜しまれる。合掌。
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