風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

京都ぎらい

2016-04-05 21:12:29 | 日々の生活
 井上章一さんのシンパらしい知人から、読み捨てる前に、お前は確か京都に縁があったなと言われて頂いたので、読んでみた。今、ベストセラーの新書のようである。
 嵯峨の生まれで伏見に暮らす著者のことを、「京都」出身と呼んではいけないらしい。嵯峨も伏見もいずれも京都市内に属するのは事実なのだが、「洛外」(=郊外)であって「洛中」(=都)ではないから、ということらしいのである。傍から見れば目くそ鼻くその類いの感がしないでもないが、そこが「洛中」のひとたちのプライドらしい。そんな小さな中華思想を巡る心象風景を、著者独自の思索と文体でねちっこく綴って行く。シンパには、この独特の文体がたまらないのだろう。
 もとより私は京都ぎらいではない。学生時代の4年を過ごしただけの、言わばお客さんなので、窺い知れない世界だ。「洛中」だの「洛外」だのと言われても、洛中洛外図屏風くらいでしかその名を記憶しない。あるいは将軍「上洛」とも言う。この「洛」は中国の古都「洛陽」から採ったもので、この一字で以て京都を表すようだ。その中心地を、著者は本書の中で、室町幕府が置かれた室町通り界隈と言う。
 Wikipediaで「室町」「洛中」などを調べてみると、次のようになる。足利三代将軍義満が「花の御所」を造営したのが室町通今出川付近で、政治・文化の中心地として賑わった。応仁の乱の後、幕府は衰退し、京都は荒廃して上京と下京に分裂し、これらを結ぶ唯一の道が室町通であった。豊臣秀吉の「洛中とは」という下問に対し細川幽斎が「東は京極迄、西は朱雀迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。されば内裏は代々少しづつ替ると申せども、さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし」と答えたのを受けて、秀吉は「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤(御土居)を築かせたという。打ち続く戦乱で境界が定かではなくなり、荒れ果てた京都を復興するため、まずその範囲を定めたものとされ、以後「御土居に囲まれた内側が洛中」という定義が一般化するのだが、当時においてなお「平安京の京域内が洛中」という認識が存在していたことになる。
 前置きが長くなった。先の戦争と言えば、京都の人にとっては応仁の乱を指すと、司馬遼太郎さんがどこかで書いていたのを思い出す。それは、京都が太平洋戦争の災禍を避け得たという事実以外に、500年以上の時間感覚を日常的にもつ、つまり歴史が連綿と続くことの矜持の表れでもあり、それが京都という土地柄でもあるのだろう。
 そう言えば、直接耳にした話で思い出すことがある。忘れもしない大学4年の10月1日、つまり内定日なので、東京に呼ばれたその帰り、京都に戻る新幹線で隣り合わせた上品そうなオバサンは、これから三笠宮の茶会に出席するのだと言って、学生の私を驚かせた。余りに素直に反応したものだから、問わず語りで、京都までの三時間、たっぷり話につき合わされるハメになった。自分は住友家から初めて関ヶ原を越えて東芝(三井家)に嫁いだのよ、とか、兄が京都帝大生でね、戦死したんだけど、祇園の芸子に子供を孕ませて大変だったわ、とか、三鷹台駅前の花屋さんでxxxx(その方の名字だが一応伏せておく)と言えば分かるから、今度遊びにいらっしゃい、云々。そんなやんごとなき人が何故グリーン車じゃなかったのか・・・といったところまで詮索する余裕はない。それにしても、(大法螺じゃないとして)住友家にとっては関ヶ原が西と東の「境界」だったと見える。
 そうした「境界」によって形作られる人々の意識、言わば縄張り意識は、地理的・歴史的なものにして、なかなかどうして変わるものではなさそうだ。一国内のこと、しかも日本であれば、同じ日本人のことであり、当人にとっては重大でも傍目には目くそ鼻くそと捨て置けるほど微笑ましいものだが、国境を跨いで、しかも民族が異なると、まさにそれが地政学で扱われるところのものの実体であり、微笑ましいなどと生易しいことは言っておられず、京都の人々の排外的な矜持を見る限り、その存在はなかなか厄介そうだ。
コメント (1)
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