風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

永遠の野球少年

2016-02-06 00:50:17 | スポーツ・芸能好き
 数日前の深夜、清原が覚せい剤取締法違反容疑で現行犯逮捕された臨時ニュースが流れたときは、やっぱり捕まったかという諦めが先に立ったものの、ここ数日、心の底に引っ掛かり続け、私なりにはかなりショックだった。
 年下だったが、私たち同時代のヒーローであり続けた。チームメイトにも恵まれたが、その誰よりも清原のスター性は輝いていた。あのPL学園では1年生から4番打者を務め、同級生・桑田との「KKコンビ」で、1983年から甲子園に春・夏合わせて5度出場して、2度の優勝と2度の準優勝を果たし、甲子園での通算13本塁打は今も破られていない。1986年に西武にドラフト1位で入団すると、高卒新人として最多の31本塁打を放ち、打率3割4厘で、新人王に輝いた。ここでも4番打者として、3番・秋山と「AK砲」と恐れられ、西武在籍の11年間で8度のリーグ優勝と6度の日本一に貢献した。1996年オフにフリーエージェントで憧れの巨人に移籍してからは、必ずしも満足のいく結果が出せなかったが、2008年の現役引退まで、通算2338試合に出場し、生涯打率は2割7分2厘ながら、2122安打、525本塁打(史上5位)を記録した。打率・打点・本塁打の主要3部門のタイトルがなく「無冠の帝王」と呼ばれたが、サヨナラ本塁打12本は歴代最多であるのに加え、オールスター戦で最多7度の最優秀選手(MVP)にも選ばれるなど、大舞台での勝負強さはピカ一で、記憶に残る選手だ。
 清原を語るときに忘れられないのは、何よりその涙もろさだろう。なりは大きいが、野球少年がそのまま大きくなったような純朴さを保ち続け、可愛い奴っちゃな・・・と思わせて、野球ファンには堪えられないキャラクターだった。先ずは1985年のドラフト会議で、入団を熱望した巨人に指名されずに悔し涙して、人々を虜にし、2年目の日本シリーズでは、その巨人との対戦で、優勝を目前にして、9回2アウトではなくまだ1アウトなのに、守備につきながら涙を流し始め、人々の度肝を抜いた。この涙によって清原伝説は不動のものになったと言えるだろう。2006年、想い出の甲子園で史上8人目の通算1500打点を達成したときは「苦しいときは仰木監督の写真を見た」と目を潤ませ、2008年の引退試合でも大粒の涙を流した。
 写真週刊誌では、自分のことを「ワイ」と呼ぶ「番長日記」で、いかにも奔放な番長振りが読者を大いに楽しませたが、実際には「ワイ」などと言ったことがなく、「番長・清原」は周囲が作り上げた虚像だったようだ。むしろ野球が好きでしょうがない少年のまま、試合後のロッカールームではバットを離さず、野球の話を続けたというし、チームに用具の差し入れなどを頻繁に行ったり、2008年10月1日の引退試合では、完投で10勝目を挙げたオリックスの近藤が清原に手渡したウイニングボールにサインを入れて返すという話もあったりで、気配りの人でもあったようだ。実際に、西武時代の同僚でロッテの伊東監督は「根は優しくて、かわいげのある後輩。残念」と嘆き、巨人の阿部は「新人の俺たちが、やりやすいように気を遣ってくれていた。表向きは番長だけど、すごくみんなに気を遣ってくれていたこともあって、余計に寂しい」と話し、PL学園時代の1年先輩で、関西国際大野球部監督の鈴木英之氏は「清原は『番長』と呼ばれていたけれど、それはマスコミがつくった姿で、そんなに強い人間ではなかった」「番長のイメージに応えるために無理をしていた部分もあったのでは」と語っている。それがスキになり、転落につながってしまったのだろうかと、産経の記事は言うが、軽々しいコメントは避けたい。総じて所謂体育会系で後輩の面倒見がよく、義理堅くて、慕う選手が多かったようだ。暴力団関係者との噂も絶えないが、それも、ある意味で清原らしいと言えるのだろう。
 プロ野球名球会のイベントに参加した1月11日には、でっぷりお腹を突き出したみすぼらしい姿を晒し、かつてカモシカのように痩せて精悍だった彼の見る影もなかった。私も小学生の頃は同級生と野球チームをつくり、一度ならず甲子園を夢見たこともあって、清原の屈託ない笑顔は、今もなお憧れである。永遠の野球少年として、戻って来て欲しい。
コメント
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