風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

齢をとるということ

2016-02-17 00:56:08 | 日々の生活
 最近の総合病院ときたら、待合室の隣にタリーズなどのコーヒー専門店やコンビニが入っていて、誠に便利だ。以前(と言っても既に10年位前になるが)、マレーシア・ペナンに駐在していた頃、近所の病院に贔屓のパン屋が入っていて、遠くまで買いに行くのが面倒な家内は、パンを買いに病院に通った(!?)ものだったが、日本も変わったものである。
 こんな話をするのも、久しぶりに総合病院に行ったからなのだが、歯医者や町医者(数年前に肉離れをおこした)以外に、また見舞いの機会を除いて、何十年振りのことであろうか。40代までは勢いそのままに健康そのもので、50を前にして初めて、会社の定期検診で一部の数値が標準を外れ、今回とうとう再検査を指示されてしまった。マラソンを始めたのは、そんな狭間で、努力しなければ健康を維持できない年齢に達したと諦観したことによる。いくつか検査を受けた後、医者からは、その年でマラソンを問題なく走れるのだから大丈夫でしょうと言われたが、トドメのCTスキャンまで受け、問題なしとの太鼓判を貰った。
 やれやれといったところだが、年のせいか、身近に亡くなる人を見るようになって、自分が死ぬときは、なんとか健康を維持した挙句、ポックリ死にたいと思うようになった。死ぬ寸前まで、自分の足で歩き、自分の目や耳や鼻や口で知覚・聴覚・嗅覚・味覚し、周囲の手を煩わせることなく、おとなしく自らの生を終えたいものだと思う。
 昔なら、日本でも、老衰で済まされたであろうが、最近の医療技術の進歩と、医療が身近になったお陰で、自分の健康がガラス張りになり、治療を受けて生き永らえる確率が高くなり、それに伴って多少は生活に不自由する、場合によっては寝たきりの老人も、多くなったようだ。それで本人は果たして幸せなのかどうか、家族などの周囲の自己満足のためではないのか、生の尊厳と言うより医療産業のためではないか、などと私がまだ若いせいかも知れないが、勘ぐってしまう。実際に、私だけでなく、福祉大国スウェーデンをはじめとする欧米諸国では、高齢者が自ら食物を摂取出来なくなると、無理な延命を施さず、せいぜい内服薬を処方するだけと聞いた。点滴や胃ろうなどの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であり、自然な死を迎えることこそ、高齢者の尊厳を保つ最善の方法だと考える成熟した価値観があるようである。冷静に考えれば、医療技術は、単なる延命のためではなく、救える人にもっと向けられるべきであろう。世界一の長寿大国・日本を単純に喜んでばかりはいられないように思う。
 最近、医療費をはじめ高騰する社会保障費を抑制するため、単なる寿命ではなく、健康寿命という言葉が脚光を浴びるようになったが、お上に言われるまでもなく、自主的に考えるべきものであろう。いずれにしても、普通に日常生活を送れるのは70歳程度までと言われるので、日本の老人はその後10年近く不自由な生活を送ることになる(あくまでも平均の話だが)。今回、再検査を徹底的に実施したのも、関心はそこにあって、長生きすること自体が目的なのではなく、まだやりたいことがあり、そのために生きる限りは健康でありたいと願うからだ。若い内は健康のことなど意識しない。意識しなくても健康でいられる。齢をとるということ、あるいはもう若くないと思うのは、健康を意識し、健康のために努力し始めるところにある。努力するのは、普通の日常生活を送るためだ。自分の足で歩き、好きなものを食べ、美味い酒を飲む・・・そんなごく当たり前のことが出来なくなる人生ほど寂しいことはない。なんだかシケた話だが。
コメント
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